2021年5月20日、中国解放軍報はフィリピンと「南シナ海に関する二国間協議メカニズム」第6回会合を行ったことを明らかにした。同メカニズムは2017年に、信頼醸成、海上安全保障と協力を促進する枠組として設立された。扱われている議題は、海上における捜索・救難、海上安全保障、石油・ガス開発及び漁業に係る問題である。
2016年7月、国際仲裁裁判所はフィリピンのアキノ前大統領の提訴を受け、南シナ海における中国の主張を無効とする裁定を下した。しかしながら、アキノ大統領の後任であるドゥテルテ大統領は、中国との関係改善を優先する政策をとり、本裁定と距離をとっている。中比の協議メカニズムは、仲裁裁判所の裁定後に設置されている。両国間で協議の場を設け、問題の解決を図っているという姿勢を国際的に示す意味合いが強く、複数国の主張が錯綜する南シナ海問題を、二国間のみで解決できる幅は狭いと考えられる。事実、今年3月にフィリピンの排他的経済水域に200隻を超える中国漁船が集結した際に本協議メカニズムが使用された形跡は認められていない。5月以降漁船群の存在は伝えられていないが、第6回会合においてフィリピンが、この漁船の集結について、中国側にどのように問題提起し、どの様な決着がつけられたか不明である。しかしながら、中国が、南シナ海における自らの権益に影響を及ぼすいかなる合意も結ぶ可能性は極めて低い。
フィリピンは、沖縄及び台湾とともに、いわゆる第一列島線を形成し、南シナ海と西太平洋を結ぶバシー海峡を臨むという戦略的要衝に位置している。第2次世界大戦後の独立以降もアメリカがスービックとクラークに大規模な海空軍基地を維持していたことは、米ソ冷戦時にフィリピンが戦略上極めて重要な位置にあったことを示している。1951年8月に締結された米比相互防衛条約は無期限に効力を有すると規定されている。1991年のソ連邦崩壊に伴い、フィリピン国内の反米感情の高まりとアメリカ軍の兵力削減の流れを受け、条約は保持しつつも、米軍自体は1992年までに撤退を完了した。しかしながら、米軍撤退直後から南シナ海における中国人民解放軍の活動が活発になったことを受け、1998年に「訪問米軍に関する地位協定」(VFA : Visiting Force Agreement)が締結され、1999年から米比共同軍事演習を再開、2014年にはフィリピン国内の5か所の軍事基地を利用できる協定(EDCA : Enhanced Defense Cooperation Agreement)が締結されている。2017年5月には、ミンダナオ島マラウィ市においてイスラム原理主義集団アブ・サヤフと交戦状態となった際、フィリピン政府は米軍に支援を要請、アメリカ特殊部隊がフィリピン軍を支援し、戦闘を鎮圧している。
フィリピンのドゥテルテ大統領は、低所得者層の不満を背景に強引とも思われる強権的手法で統治を行っている。国際的には、非民主的という批判を浴びているが、犯罪件数は顕著に減少し、国民から高い支持率を得ている。昨年10月にフィリピン国家警察が公表した2020年1月から9月までの犯罪件数は前年比23.9%減であった。ドゥテルテ政権の最優先課題は国内の安定であり、治安に加えてインフラ整備による経済発展を目指している。強引な政治手法に対する欧米諸国の批判への反発とインフラ整備に伴う資金需要から中国寄りの姿勢を明確にし、中国の一帯一路を支持している。中国への傾斜は、同氏の個人的感情に起因する部分も多いが、2012年4月スカボロー礁を巡る中国との対立を教訓としている面もある。当時アキノ政権は中国に強硬姿勢で臨んだ。これに対し中国は、フィリピンのバナナ、マンゴー、ココナッツ、パイナップルの中国における検疫を意図的に遅らせ、フィリピンへの観光も差し止めた。経済界から強い圧力を受け、フィリピン政府は中国への対応を変更せざるを得ない状況となった。その際、米国からいかなる支援もなされなかったことがフィリピンのトラウマとなっている。ドゥテルテ大統領は、この教訓を受け、アキノ政権の米国一辺倒の外交から脱却し、中国との良好な関係を維持することにより国益を追求している。
ドゥテルテ政権下でフィリピンにおける中国の存在感は拡大しつつあるが、これが逆にフィリピン国民の間で中国への警戒感が拡大する要因ともなっている。米国調査会社ピューリサーチセンターの2019年春の調査結果によると、中国を好ましいとする人の割合は42%であったのに対し、アメリカを好ましいとする人の割合は80%にも上っている。高い支持率を誇るドゥテルテ政権であるが、中国への極端な傾斜は世論から強い反発を受ける
可能性がある。2021年2月ドゥテルテ大統領は「自分は米国と中国両方の友人である」と述べた上で、武器使用を認める中国の新たな海警法について「中国に対し、口先だけの勇ましい態度をとる余裕はない、少なくとも今は、我々はどんな対立も避けている」と発言している。ドゥテルテ政権は、経済は中国、安全保障は米国という綱渡りを行っていると言えよう。
サンタフェ総研上席研究員 末次 富美雄
防衛大学校卒業後、海上自衛官として勤務。護衛艦乗り組み、護衛艦艦長、シンガポール防衛駐在官、護衛隊司令を歴任、海上自衛隊主要情報部隊勤務を経て、2011年、海上自衛隊情報業務群(現艦隊情報群)司令で退官。退官後情報システムのソフトウェア開発を業務とする会社において技術アドバイザーとして勤務。2021年から現職。
提供:Philippine Coast Guard/National Task Force-West Philippine Sea/AP/アフロ