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2023.10.13 安全保障

市民の支持で増長し、独裁者の信頼を過信したプリゴジンの末路
「英雄の死」か「反逆者の抹殺」か(2)

木村 康張

 ロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者、プリゴジンの死を巡っては、さまざまな憶測が流れている。前回は、プリゴジンが搭乗した航空機の墜落状況などから、その原因は「暗殺」だと推定した。かつて「プーチンの盟友」とまで呼ばれたプリゴジンは、なぜ排除されたのか。そしてその死はロシアにどのような影響を及ぼしたのか。

 墜落が暗殺だとすれば、それはプーチン大統領の意向に基づくものだが、当初プーチンとプリゴジンの関係は良好だった。決裂はいつ起きたのか。「武装蜂起」後のプーチンとプリゴジンの言動を追ってみよう。

 プリゴジンの「武装蜂起」は、ベラルーシのルカシェンコ大統領の仲介によって一日で収束した。武装蜂起を起こした翌日の6月24日夜、プーチン大統領は「プリゴジンに対する捜査を停止し、ベラルーシ亡命を容認する」といった寛大な措置をとった。プリゴジンは、ロシアの軍高官に対して不満を示していたが、プーチンへの批判は行っていない。プーチンとしては、プリゴジンがベラルーシに亡命し、沈黙を守るのであれば、武装蜂起を不問に付すつもりだったのだろう。

 だがプーチンの思惑は外れた。プリゴジンは6月26日夕刻、武装蜂起について「正当な抗議で、多くの国民に支持された」と声明を発表。これに対しプーチン大統領は同日夜に演説を行い、「反乱の首謀者は、自国や自国民を裏切った」とプリゴジンを非難した。翌27日、プリゴジンはベラルーシに入国したものの、15時間滞在した後にロシアに戻り、以後サンクトペテルブルクを中心に自由に行動していた。

 プーチンはプリゴジンをワグネルから引き離すことを画策する。プーチンは6月29日、プリゴジンとワグネル部隊指揮官35名をクレムリンに招集し、「トロシェフ(ワグネル参謀長)を新たな指導者とし、彼の下で国家への奉仕を続けることができる」と提案した。しかし、プリゴジンはこれを拒否した。プーチン大統領が「ワグネル解体」を決意したのは、おそらくこの時だ。

そして「プリゴジン排除」へ

 7月に入ると、ワグネル系のメディアが活動を停止、戦闘員の募集も止められ、国営テレビは「裏切り者」としてプリゴジンへの個人攻撃を開始した。ロシア国防省は7月12日、ワグネルが保有する戦車やミサイル、小銃や弾薬に至るまでの「武器の引き渡しが完了した」と発表した。これによりワグネルは、実質的に武装解除された。

 以降、プーチンとプリゴジンの関係は急速に冷え込んでいく。

 ワグネルは、アフリカなど海外でも活動している(図1)。米ウォール・ストリート・ジャーナル紙によると、プーチンは7月28日、サンクトペテルブルクで開催されたロシア・アフリカ首脳会議において、アフリカ首脳らに「プリゴジンから距離を置くべきだ」と発言、ロシア側のアフリカ事業担当として参謀本部情報総局幹部を紹介した。米政策研究機関「戦争研究所」によると、8月14日、モスクワで開催されたロシア軍事フォーラムにおいて、ロシア軍幹部はワグネルと関係を持つ国の参加者に対して「ワグネルと関係を断ち、ロシア軍が主導する民間軍事会社に切り替えるよう」求めた。

 ワグネル解体を図るプーチン政権に対し、プリゴジンは8月18日から23日にかけてアフリカを訪問し、ワグネルとの関係維持を主張している。プリゴジンは、中央アフリカ共和国のトゥアデラ大統領との会談では「身辺警護を含む協力を継続する」と述べ、次に訪問したマリ共和国では「ワグネルはアフリカをより自由にする」とワグネルの存在感をSNSでアピールした。プリゴジンがアフリカ事業を巡って政府方針に抵抗するなか、プーチンは彼の「排除」を決意したものと思われる。 

 プリゴジンの死亡後、サンクトペテルブルクのワグネル本部や墓に「献花や弔問に訪れる人が絶えない」と報じられている。プリゴジンの死は、ロシア国民やプーチン政権にどのような影響を与えたのであろうか

 独立系世論調査機関「レバダ・センター」が7月3日に発表した世論調査結果では、武装蜂起による反乱を起こしたプリゴジンを「支持しない」と回答した者は50%、「支持する」と回答した者は22%であった(図2)。一方、ウクライナにおける「特別軍事作戦」におけるワグネルに対する評価は、「評価する」と回答した者は65%、「評価しない」と回答した者は13%であった(図3)

 9月1日に同センターが発表した世論調査結果によると、死亡したプリゴジンを「支持する」と回答した者は39%、「支持しない」と回答した者は37%とほぼ拮抗している(図4)。

 この調査結果についてレバダ・センターのデニス・ボルコフ所長は、「戦場で連邦軍より活躍しているワグネルは人気があり、プリゴジンを『ワグネル戦闘員の父』としてプリゴジン支持者は評価している」とする一方、「不支持者はワグネルの武装蜂起の理由を『プリゴジンの個人的な野心』として反逆者と評価している」と分析している。また、プリゴジン搭乗機墜落について、「事故」と回答した者は39%、「暗殺」と回答した者は34%、「プリゴジンは生存している」と回答した者は16%であった(図5)。

 おそらく弔問に訪れる者は、プリゴジンの政治的な言動を支持しているのではなく、「特別軍事作戦」で活躍しているワグネルの代表としての彼を評価している。そして、その死への憐れみによって支持を強めたように見える。つまり、プリゴジンを「悲劇の主人公」とらえているようだ。

 支持者の行動は穏健だ。サンクトペテルブルク以外でも、自然発生的に仮設された慰霊碑に市民が花を捧げるなどプリゴジンの追悼が行われているが、反政府運動に発展する動きは現時点では見られない。プーチン政権が追悼を禁止する動きもない。

 一方、プリゴジン不支持者たちは、国営テレビなどによるプリゴジン批判の影響を受け、彼を「個人的な野心を持った反逆者」ととらえている。

 世論が二分された背景には、ロシア人のエートス(習慣によって形作られた行為性向)に関係するように思われる。ロシア人は、帝政ロシアからソ連を経て、現在のプーチン政権においても、強い権力や権威に対する「恐れ」を個々の秩序感覚の基盤として行動するというエートスを共有している。プリゴジンへの評価も、国営テレビの報道などを通じて政権の主張を受け入れた不支持者と、政権から罰せられない範囲内で彼の死を憐れむ支持者とに分かれたのではないか。

矩をこえた「英雄」

 プリゴジンは、ウクライナの戦況が芳しくないことでロシア軍高官を批判していた。プーチンとしては、プリゴジンが政治的影響力を増すのを避けるため、生前に彼の進言に従うのは難しかっただろうが、彼の死後、軍の人事に影響があったのだろうか。

 英デイリー・メール紙は7月9日、プリゴジンの批判のターゲットだったゲラシモフ参謀総長が特別軍事作戦総司令官を解任されたと報じた。しかし、ロシアのスプートニック紙は8月19日、同国南西部ロストフ・ナ・ドヌーの特別軍事作戦司令部を訪れたプーチンがゲラシモフの出迎えを受けたと報じている。解任の真偽は不明だが、少なくともプーチンはゲラシモフに特別軍事作戦の戦況を報告させている。

 一方、プリゴジンと親しかった軍高官はどうなったのか。

 プリゴジンが死亡した8月23日、ロシア国営タス通信は、「スロビキン空軍総司令官が解任された」と報じた。同司令官は、ワグネルの武装蜂起前にプリゴジンの説得に当たっていた。しかし、ロシアのコメルサント紙は9月15日、スロビキンがロシア国防省の代表団と共にアルジェリアを訪問していると報じ、アフリカ事業に関連する役職への任命に関係している可能性があると指摘している。スロビキンに対するプーチンの信頼は維持されているとみていいであろう。

 このように、プリゴジンの死によってプーチン政権が大きな影響を受けた形跡は見られない。むしろ彼の死を契機に、軍事・外交面の基盤強化がなされた面もある。軍事面においては、ワグネルの実質的解体により、希望するワグネル戦闘員は、ウクライナ東部ドンバス地方の義勇兵部隊となり、ロシア国防省と契約を結んで非正規兵から志願兵となった。

 プーチンは9月28日、ワグネル参謀長のトロシェフ元内務省軍大佐と会談し、ワグネル戦闘員を組織化させてウクライナでの作戦に従事するよう指示した。トロシェフは現在、国防省に所属しており、今後、ワグネル戦闘員はロシア連邦軍の志願兵として作戦に従事することが予想される。「特別軍事作戦」の指揮がロシア連邦軍に一元化され、作戦指揮と後方支援の両面で指揮系統の強化が図られることとなる。

 外交面では、ワグネルのトップ3名が死亡したことにより、ワグネルはアフリカにおける巨大な利権を維持することが困難となり、これに代わってロシア軍主導の民間軍事会社がアフリカ事業(図6)を行うことが予想される。

 ロシアでは、ソ連崩壊後、経済民営化により巨額の富を得て政治的な発言力を持った「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が生まれ、政治家や官僚との癒着によってその存在を拡大させていった。そんなオリガルヒに対し、プーチン大統領は、政治的脅威となる者には容赦なく抑圧し、政権に忠誠を誓った者とは関係を深めてきた。

 プリゴジンは、「忠誠」と「脅威」の両面を持つオリガルヒだった。当初プリゴジンは、プーチン政権に忠誠を誓いつつ、富を貯え、ワグネルという独自の軍事組織を持って海外にまで事業を展開した。だがウクライナ侵攻後、前線でロシア連邦軍をしのぐワグネル部隊の戦果に増長し、ショイグ国防相やゲラシモフ参謀総長を公然と非難した。プーチンは、彼の軍指導部への批判を黙認し、プリゴジンはプーチンの自分への信頼は揺るぎないものだと思い込んだ。その結果が6月の「武装蜂起」であり、その後もアフリカの権益に関する政府の方針に頑強に抵抗した。プリゴジンは、プーチンにとって危険な存在と認識されていった。

 つまるところ、プリゴジンは市民にとっては「英雄」だったが、プーチンにとっては「反逆者」に過ぎず、その末路が今回の墜落を偽装した抹殺だったとみるべきだろう。

写真:AP/アフロ

地経学の視点

 以前筆者が指摘したとおり 、ウクライナ戦争ではロシアの総司令官が次々と交替させられていた。戦局が打開できていないことの証左であり、戦場におけるワグネルの活躍によって勲章を授与されたプリゴジンが軍高官を批判することは、プーチンや国民の苛立ちや不満を代弁した部分もあるかもしれない。
 
 だが、そうした「英雄的なふるまい」が許されるのは、独裁者の地位を脅かさないうちだ。プーチンへの直接的な批判ではなかったにしても、反乱を起こした者に恩情を与えれば、自らの支配力を疑われかねない。まして来年に大統領選挙を控えるなか、プーチンの政治基盤を揺るがす事態は絶対にあってはならない。

 見方によってはルカシェンコ大統領の仲介もプーチンにとって屈辱的であり、プリゴジンに示した亡命案は「レッドライン」だった。プリゴジンはそれをやすやすと踏み越えた。
 
 独裁者には真の友人はいない。オリガルヒとして財を成し、政権に取り入ったプリゴジンは、そのシンプルな原理に気付けなかった。(編集部)

木村 康張

実業之日本フォーラム 編集委員
第29期航空学生として海上自衛隊に入隊。航空隊勤務、P-3C固定翼哨戒機機長、米国派遣訓練指揮官、派遣海賊対処行動航空隊司令(ジブチ共和国)、教育航空隊司令を歴任、2015年、第2航空隊(青森県八戸)司令で退官。退官後、IT関連システム開発を業務とする会社の安全保障研究所主席研究員として勤務。2022年から現職。

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