福島原発処理水を巡る情報戦が激化しつつある。
情報戦は実際に弾が行き交う戦闘ではない。しかしながら、戦闘の一環である以上、攻撃主体、攻撃目的、更には攻撃対象が存在し、その状況から情報戦を仕掛ける側の意図を推定できる。さらには、攻撃に対し、どのように防御するかにも目を向ける必要がある。
まず防御側である日本の状況について見てみよう。
日本政府は、福島第一原子力発電所の廃炉・汚染水処理問題を事業者任せにせず、政府が主体的に、総力を挙げて取り組むという方針の元、経済産業省を中心に「廃炉・汚染水・処理水対策閣僚会議」を設置している。同会議の下に「汚染水処理対策委員会」を設け、廃炉に伴う汚染水・処理水処分に関する検討を進めてきた。2021年公表された「ALPS(Advanced Liquid Processing System :多核種除去設備)処理水の処分に関する基本方針」において、処理水の海洋放出の方針を明らかにするとともに、それに伴う、環境モニタリング等の実施に加え、風評被害対策の実施について説明している。
今回の情報戦において注目すべきは、風評被害対策の一つである「国民・国際社会の理解の醸成」である。同項目には、「ALPS処理水の安全性について、科学的根拠に基づく情報を分かり易く発信。IAEAとも協力」とされている。
経済産業省ホームページには、「ALPS処理水の処分」というサイトがあり、処理水の処分、風評対策に係る日本の取り組みを毎月「トピック集」として掲載している。5月のトピック集には、国内外における福島フードフェアの実施、モニタリングシンポジウム、韓国への説明会実施に加え、G7広島サミット首脳声明において、処理水に関する日本の取り組みを支持する文言が加えられたことを紹介している。これらの成果は、日本生産物への輸入規制国の減少につながっている。
外務省ホームページによると、原発事故を受け、日本生産物に輸入規制をかけていた43カ国・地域が逐次規制を撤廃している。2022年7月現在、輸入停止あるいは限定規制を行っている国・地域は12である。6月30日の報道によれば、限定規制をしていたEUが規制撤廃の動きを示しており、それに賛同する規制国の動きを勘案すると、何らかの規制を設けている国・地域は7に減少すると期待されている。
外務省によると、2022年2月現在、輸入停止を含む規制をかけている5か国・地域は、韓国、中国、台湾、香港、マカオである(台湾、香港、マカオは一部を除き緩和)。福島原発処理水を「汚染水」、更には「核排水」と批判しているのは、世界で中国と韓国の2カ国のみである。この事実からだけでも、両国の福島原発処理水に対する認識が国際標準から外れているか理解できる。この観点から見ると、防御を中心とする日本情報戦は、一定程度効果を上げているということはできる。一方で、中国と韓国に対する日本の情報戦が効果を挙げていない背景には、日本に対する両国の思惑があることは間違いない。
処理水攻撃に向かう中韓の背景にある相違
反日的と見れば軌を一にしているように見える両国。だが、両国それぞれの主張を情報戦の観点から比較すると明確な違いが認められる。
中国は、外務省や国防省の報道官が処理水の海洋放出に安全上の疑念を示すとともに、国際的な場で幾度となく懸念を示している。今年5月には、訪中したIAEAのグロッシ事務局長に、秦剛外交部長は、「福島汚染水に関し、IAEAが適切に対応することを望む」と圧力を加えている。さらに、6月14日の記者会見で中国外務省報道官は、在中日本大使館が外国メディアに処理水海洋放出問題について説明会を実施したことに対し、「虚偽の情報をばらまき、国際世論を惑わそうとしている」と批判している。一連の発言を見る限り、中国の情報戦は、処理水が科学的に安全かどうかということよりも、国際世論を対象に、日本の不誠実さを喧伝し、国際的信用を失墜させることを目的としていると見るべきであろう。
一方の韓国は全く状況が異なる。
5月7日の日韓首脳会談において、韓国専門家現地視察団の派遣について合意し、同視察団は5月末に訪日、現場の視察を含め、日本側と意見交換を行っている。経済産業省のホームページによると、その後もテレビ会議などを通じて資料提供や説明会などを実施している。尹政権は福島原発処理水海洋放出に一定の理解を示そうとしているが、現時点で視察結果を公表していない。この背景には、韓国最大野党「共に民主党」の李在明代表が、福島処理水問題を与党攻撃の大きな手段としていることがある。
韓国国内では、李代表が在韓中国大使と面談して処理水海洋放出について共闘を申し入れたことや、韓国国内で塩や海産物などへの風評被害が拡大したことを受け、逆に野党に対する批判が高まっている。尹政権としては、現時点で、何らかの意思表示をすることは、世論の風潮から得策ではないと判断し、専門視察団の視察結果の公表をあえて遅らせている可能性がある。韓国における福島処理水情報戦の目的は尹政権批判であり、その対象は韓国国民と言える。いずれにしても、処理水の科学的評価は二の次という点は中国と同じだが。
(追記:7月4日、IAEAグロッシ事務局長は、福島原発処理水海洋放出にかかわる一連のレビューの結果を公表、報告書を岸田総理に提出した。その内容は、ALPS処理水の海洋放出を国際的安全基準に合致し、人や環境に与える放射線の影響は無視できるとするものであった。同報告書に対し、中国外交部報道官は「報告書は専門家の意見を網羅したものではなく、『通行証』にはならない」と批判、韓国は大統領府関係者が「IAEAの説明を聞いてから判断する」としている一方、野党関係者は「IAEAの検証は中立性に欠ける」と批判するなど割れている。)
南京事件、慰安婦問題、徴用工問題の轍を踏むな
中国及び韓国との情報戦への対応は、上記の観点を考慮する必要がある。
中国に対しては、国際世論の動向が大きな鍵となる。国際世論が処理水の海洋放出を容認する方向に動けば、中国の主張は勢いを失う。その観点から、6月に訪日したウィップス・パラオ大統領が海洋放出に理解を示したのは大きな一歩である。パラオの主たる産業は観光であり、日焼け止めクリームの使用に関する条例を制定するなど環境保護のため極めて厳しい基準を設けている。さらには、日本と排他的経済水域を接しており、処理水放出が海洋汚染につながるのであれば、真っ先に影響を受ける国である。そのような国が理解を示したことは、他の太平洋島嶼国家にも理解が広がることが期待できる。加えて、中国が官製メディアを通じて不確かな情報を含めた批判的な報道を行っている現状に鑑み、6月23日に読売新聞が報じた「中国の複数原発がトリチウム放出、福島処理水の最大6.5倍、周辺国に説明なしか」というような科学的事実を踏まえた記事が世界に向けて配信されていくことも、日本にとっては重要だ。
忘れてはならないのは、国会議員を含め、日本の一部に韓国野党と連携する動きが確認できることである。国境を越えて、国会議員を含む両国民が意見交換などを通じて考え方を共有していくということは理解できる。しかしながら、共同して「放射性汚染水の海洋放出を中止せよ」との横断幕を掲げることは理解を超える。特に国会議員に求められるのは、国会おける議論であり、他国の議員などと気勢を上げる姿には違和感しかない。先述のように、韓国国内では中国と協調しようとした李在明代表が批判を受けたが、そうした動きは日本では見られない。しかし、自らの主張を際立たせるために国外勢力を使用することは、他国から見ると、国家としてのガバナンス欠如の証にほかならず、恥ずべき姿勢だと指摘しておきたい。
福島原発処理水の海洋放出は、この夏にも開始される。この問題について、南京事件、慰安婦問題、徴用工問題のように、戦後贖罪意識や相手の国内事情を忖度する大人の態度から、自らの主張を封印するようなことがあってはならない。一度国際的に認知された事象を覆すことがいかに難しいかは、日本は幾度となく学んだはずである。
韓国に対しては、基本的には国内問題ではあるが、日本に及ぼす将来的な影響を考慮する必要がある。慰安婦問題、徴用工問題の轍を踏んではならない。処理水の科学的安全性やモニタリング結果の公表などを淡々と行う事はもちろんであるが、フェイクニュースなどに対しては毅然と対処する必要がある。韓国メディアが処理水を巡って「日本がIAEAに献金した」と報じたことに対して、松野官房長官による否定、外務省による反論の提示は適切な行動だった。
科学的データに基づく正当性の主張を国内外に示すとともに、どうしても避けられない風評被害については補償をもってあたるべきであろう。一方で、中国、韓国のように、科学的データやIAEAのお墨付きをも度外視し、感情論で国際世論や国内政治を動かそうという動きに対しては、科学的データの提示だけでは不十分である。あらゆる手段を講じて、日本の処理水対策に関する国際的認知を広げる努力が必要だろう。この問題を、単に福島原発処理水対策問題に矮小化することなく、日本に対する共感力拡大のツールとすべく「攻めの情報戦」が必要である。そのためには、経済産業省や外務省という縦割りではない、総合的な司令塔が必要であり、内閣府に設置が検討されている「戦略的コミュニケーション室」がその役割を果たすことが期待される。
昨年12月に改訂された国家安全保障戦略において「能動的サイバー防御」の言葉が採用された。内閣サイバーセキュリティーセンターを発展的に改組し、司令部機能を設置、可能な限り未然に攻撃者などのサーバー空間などへの侵入を無害化する事前の措置を講じる権限が付与されるようにする、との方針が示されている。情報戦についても同様のことが言える。「能動的情報戦」を遂行できる司令塔や法的措置に関する検討を早急に進める必要がある。日本はあらゆる方面から情報戦のターゲットになっているという認識を持たなければならない。
AP/アフロ
地経学の視点
中韓それぞれの思惑の差こそあれ、両国ともに、日本が汚染された処理水を海洋に流出させていると喧伝することで、日本の国際的信用を棄損させようという動きがあるのは共通している。非科学的なこれらの抗議と同列に立つのが相応しくないという「品格」は気高いが、看過していては、記事中にあるように南京事件、慰安婦、元徴用工などの歴史問題と同じ轍を踏みかねない。
とりわけ中国は、習近平があえて「琉球」に言及するなどして100年の計で近代史の書き換えに挑んでいる。歴史は言葉に残されたものしか対象にできず、領有や帰属を争う際に証拠とされるのも100年前に残された人間の言葉の痕跡に過ぎない。処理水を巡って中韓と私たちの間に交わされる言葉は、いま同時進行で歴史として刻印され続けている。私たちは今も昔も、常に、今このときの残像が形成する認知戦の前線にあると知るべきだろう。(編集部)