中国の報道によると、中国人の幸福度指数ランキングは今年、全世界でトップである。だが、中国人の生活を見ると、社会保障制度の整備が遅れ、失業率も上昇している。所得格差が拡大し、低所得層の生活レベルが大きく落ち込んでいる。
新型コロナウイルスに対する習近平政権の政策を見ても、中国人が幸福を感じているようには思えない。
新型コロナ発生後、中国では感染を抑制するために都市封鎖を行う「ゼロコロナ政策」を各地で実施した。2022年春には、上海を中心に大規模な隔離措置が実施された。人の隔離だけでなく、食料品の供給を中心とするライフラインも断ち切られてしまった。多くの人は孤立状態になり、食べ物もなく、精神的に耐えられず、自殺者まで出た。上海は中国最大の商業都市であり、生活レベルも先進国並みだ。だが、22年春から2カ月半にわたってゼロコロナ政策に苦しんだ上海人の多くは、海外移住を希望するようになった。
2022年12月、中国政府は突然ゼロコロナ政策を転換した。政策転換は市民による抗議デモが引き金になったとされるが、本当の理由はいまだに分からない。というのは、当時、感染力が強いオミクロン株が流行しており、有効な治療薬がない中でゼロコロナ政策に転換すれば、感染拡大のリスクが高まると予想されたからだ。
実際にゼロコロナ政策後、コロナ感染者が一気に増え、死者が急増した。中国政府が発表した死者数は信用できず、香港の研究チームや米国の研究チームなどの推計によると、ゼロコロナ政策が転換された後の死者数は100万人に上るといわれている。中国は世界第2位の経済規模を誇るが、「中国人が世界で最も幸せ」というのは、間違いなくプロパガンダである。
中国のネット上で飛び交う隠語
いま中国ではやっている言葉の一つは「潤」である。もともと「潤」は日本語と同様、「潤い」という意味であるが、「潤」の中国語の発音が英語の「run」と似ていることから、走る、逃げるという意味で使われている。
中国のインターネットでは、禁止用語がたくさん設けられている。ネットで禁止用語が含まれる書き込みをすると処罰され、軽い場合、その書き込みが削除されるか、使用しているアカウントが停止される。重い場合は、投稿者が警察当局に拘束される可能性さえある。2022年12月、中国の大学で政府のゼロコロナ政策に抗議する「白紙革命」が起きたが、それ以降、ネットで「白紙」が禁止用語になった。「潤」が隠語のように使われるのはそのためだ。
では、「潤」は具体的に何を意味するのだろうか。
インターネットで使われている潤は、「海外に逃げること」である。中国の人々はSNS上で挨拶するように、「あなたはまだ『潤』しないのか」と相手に問いかける。日本人は将来への不安をよく口にするが、海外へ移住する人はわずかしかない。日本は決して世界で一番幸せな国ではないが、ほとんどの日本人はここが自分の国だと考える。中国人は自分の国が世界で一番幸せな国と言いながら、平気に国を離れ海外に移住する。中国人のアイデンティティーは一体どうなっているのか。
中国社会の現状は「哀莫大心死」
ここで、ハーバード大学やプリンストン大学などで教鞭を取っていた中国系歴史家、余英時教授の例を挙げることにしよう。余氏は、中華人民共和国の成立と同じタイミングで香港に移住し、渡米して学位を取得した後、ずっと米国の大学で教鞭を取った。
余氏はその後、一度だけ中国を訪問したことがある。それは1978年、「改革・開放」が始まった時だった。以降、同氏は一度も帰国したことがない。後のインタビューで、同氏は「あれはもう私が知っている中国ではない」と答えた。この答えから同氏の落胆ぶりを容易に想像できる。かつての中国と78年の中国がどのように違うかについて、同氏は次のように語った。
「今の中国では、信用が成り立たなくなった。人と人の間に善意がなくなり、すべては損得で計算されるようになっている」
おそらく長年米国で生活している研究者だから、中国社会の変化を観察できたのだろう。ずっと中国で生活している中国人の多くは、その変化を感知できないはずである。
政府による「改革・開放」を経て、この40余年来、中国人の生活レベルは確かに良くなった。とりわけ物質面、例えば、居住面積や食料などはかつてと比べ各段に良くなっている。半面、自由や人権について無関心の中国人が増えた。こうした中で、皮肉にも多くの中国人を目覚めさせたのはゼロコロナ政策だった。政府によって自由と権利が恣意的に侵害されたからである。
今、中国人の若者や富裕層の多くは海外に「潤」(移住)しようと考えている。中国人哲学者、庄子の言葉に「哀莫大於心死」がある。「どんな大きな哀しみでも、心が死ぬことには及ばない」という意味で、今の中国人の心情をよく表している。要するに、中国人の多くは中国の現状に失望し、先行きに希望が持てないのである。
富裕層も低所得層も海外移住を目指す
振り返れば、1970年代半ばごろ、中国大陸から香港へ逃げる「難民潮」が起きた。社会主義中国での生活苦に耐えきれず、多くの人は海に飛び込み、英国の植民地だった香港の島へ泳いで亡命した。上陸できた人もたくさんいたが、途中でおぼれて亡くなった者も少なくなかった。
「難民潮」は、後に実施された改革・開放政策の遠因といわれている。当時の中国共産党執行部は、このままいくと「難民潮」がさらに深刻化し、社会主義中国の顔に泥を塗ることになると恐れた。改革・開放へかじを切った責任者の一人は、現在の習近平国家主席の父、習仲勲だった。
目下、中国から海外へ移住する人々の動きは、かつての「難民潮」と文脈的には異なるが、祖国に失望し、海外へ移住しようとする人心の現れという意味では、本質的にはほとんど同じである。いま「潤」しようとする中国人の動きはコロナ禍が背景にあるが、本質は政府のゼロコロナ政策の失敗である。
コロナ禍は各国政府にとって試練だった。目に見えないウイルスにどのように対処すればいいか、誰も分からなかった。中国政府が実施したゼロコロナ政策は、特に初期段階では効果を発揮し、WHO(世界保健機関)にも賞賛された。
だが、ゼロコロナ政策を遂行する段階において、ルールが明文化されず担当者任せになり、住民を乱暴に隔離する事案がたくさん発生した。特に、中国政府が作った臨時の隔離施設は、洗面やトイレなどの管理がずさんで、隔離施設内で感染が増えたことも多く報告された。自宅隔離を希望する人々の意思を無視して、半ば強制的に隔離施設へ連行する事案も多かった。
長い間、中国人は自由や人権などについてほとんど無関心だったが、ゼロコロナ政策を通じて、多くの中国人は初めてその重要性を実感した。富裕層は自由と人権が尊重されない国での生活を断念して、民主主義国への移住を決断した。
低所得層は、米国など民主主義国の入国ビザを取得する経済力がないため、中国人の査証を免除する中南米の国(ジャマイカやドミニカなど)に入国してから陸路でメキシコの国境を超えて米国に密入国しようと計画する人が増えている。米国の報道によると、米国の国境警備隊は6000人以上の中国人密入国者を逮捕したとされている。しかし、これでは密入国を阻止する根本的解決にはならない。
広がる「夢」と「現実」のギャップ
習政権は国内向けに強国復権の夢を提唱している。しかし、現実問題として、中国の国力はむしろ弱体化している。コロナ禍の3年間、中国経済は予想以上に傷んでしまった。だが、中国政府は企業や家計を助ける有効な措置を講じられていない。
さる2023年5月、広島で行われたG7(主要7カ国)サミットの開催に合わせるように、中国政府はカザフスタンなど中央アジア5カ国首脳を古都西安に招き、首脳会談を行った。その際、習主席は当該5カ国に対し、260億元(約5080億円)の融資と無償援助を約束した。この気前の良さと、中国経済の困窮には、大きなギャップがある。中国にとって中央アジアの国々は重要な資源国だが、国内の経済基盤が弱体すれば本末転倒だ。
こうした中で中国の富裕層と低所得層の海外移住が加速すれば、中国経済に大きなダメージを与える。富裕層が海外へ移住すれば資本が海外に流出する。低所得層が海外へ移住することで労働力が失われる。中国政府の発表によると、2022年、中国の人口はすでに減少に転じたとされる。
さらに、富裕層は海外に移住するために、所有する不動産を売却している。都市部で不動産価格が軟調に推移しているため、すでに公共投資拡大などで財政赤字に転落した地方政府は、「土地使用権」の払い下げでも歳入を確保できず、さらなる財政難に陥る可能性が高い[1]。
このように中国経済はボタンの掛け違いによって逆回転しているが、経済政策の司令塔である李強首相(国務院総理)は有効な経済政策を打ち出せていない。これでは、習主席が提唱する「強国復権の夢」は、絵に描いた餅になってしまいかねない。
写真:新華社/アフロ
[1]中国では、土地は国が所有する国有制と農民の集団所有になっているため、企業・個人による土地所有権の売買はできない。代わりに、用途ごとに使用年限が定められた「土地使用権」が譲渡・賃貸・抵当される。具体的には、商業用地は50年、宅地は70年に設定されている。