2021年3月28日に日・インドネシア防衛首脳会談が、30日に第2回日・インドネシア外務・防衛閣僚会議が実施された。日本は米国の他、豪州、ロシア、フランス、イギリス、インドネシア及びインドと2+2を実施している。ASEANではインドネシアが唯一の国である。
インドネシアはASEANの大国であり、2億5千万人を超える人口を持つ世界最大のイスラム国家である。東西5,000Km以上に13,000を超える島々で構成される世界最多の島嶼国家でもある。マラッカ海峡やスンダ海峡という交通の要衝を抱えており、最近沈静化してきたとはいえ、イスラム過激派や海賊の活動が活発という治安上の問題を抱えている。
インドネシア独立の軌跡を見ると、現在のインドネシアのものの見方の一端が推定できる。16世紀までは、多数の民族や部族が群雄割拠し、大航海時代を通じ多くのヨーロッパ人が来航した。18世紀以降、現在のインドネシアの大部分はオランダ領となったが、第二次世界大戦において日本の軍政下に入り、終戦後はオランダに対し激しい独立運動を繰り広げた。独立に際しては、各勢力が独自の非正規軍事組織を結成し、一部には残留旧日本軍兵士が参加した事例も確認された。独立という目標は一致していたが、それぞれが求める個々の目的は全く別物であった。当時インドネシア国内に共産主義が広く浸透しており、民族的、宗教的、更には主義・主張も多様で、それぞれの利害を調整することは不可能に近かった。初代大統領スカルノは強烈な民族主義者であり、民族主義、宗教及び共産主義が三位一体となってそのバランスの上に国家建設を進めた。しかしながら、その容共姿勢が国内さらには周辺諸国から疑念を持たれ、スカルノ大統領失脚及び大虐殺の端緒となった9.30事件が生起した。スカルノ政権の後を受けたスハルト政権は、軍の力を背景に、開発独裁と称される強引な政治手法でインフラ整備を行い、一定の経済発展を達成した。発展の果実で多様性を覆い隠していたのである。この体制は経済が崩壊すれば破たんするのが自明の理であり、1998年のジャカルタ暴動は、まさにこのことを証明した。1999年以降民主化の道を歩んではいるが、この多様性は依然として、社会のみならず、政治にも残っており、これがインドネシアの外交政策を見えづらくさせている。
日本は、スカルノ時代からインドネシアとの関係を深めており、大規模な円借款やODAがスハルトの開発独裁を下支えしていた面も否定できない。1974年に田中角栄首相が東南アジアを歴訪した際には、タイ、シンガポール及びインドネシアで激しい反日デモが発生した。特にジャカルタでは1万人以上のデモ隊が暴徒化し、日本大使館の国旗が引きずりおろされ、日本車200台以上が放火された。これは、増え続ける対日赤字が自分たちの生活を苦しくさせているとの考えがそれぞれの国民に広がり、日本占領中の反発も加わり、大きな騒動となったものである。1998年のジャカルタ暴動も、経済危機に際し、華人がほとんどの富を独占しているとのうわさが広がり、中華系商店が焼き討ちされ、1,000人以上の華人が虐殺されたものだ。インドネシアでは、多様であるがゆえに、富が集中した勢力を異質化する傾向があり、これが大きな騒動に繋がりやすいという認識が必要である。
インドネシアは地政学的に重要な位置にあり、同国の安定は、日本の安全保障に直結する。また、水産資源や海底資源が豊富とされるナツナ諸島の排他的経済水域は、中国が主張する九断線と一部重複しており、中国と対立している。尖閣諸島を巡り緊張関係にある日本と関心を共有していると言える。今回の2+2において、離島開発や海洋監視・海上法執行等の海洋協力として、具体的に防衛装備品・技術移転協定が締結されたことが極めて重要である。防衛装備品の移転は、単なるハードの移転だけではなく、その運用のノウハウ、更にはメンテナンスという幅広い分野での協力までをそのスコープに含むものである。インドネシアにおける日本の存在感を向上させるいい機会と考える。
ここで日本として注意しなければならないことは、歴史の蹉跌を繰り返さないことである。そのためには、それぞれの協力分野で、インドネシアのどこで誰が利を得るのか、それはインドネシア国民に還元されるのかという視点を持つことである。一部にだけ利益を与える協力分野は長続きしない。残念ながら、インドネシアの大型インフラ案件や、武器輸入に関しては、常に不透明性が付きまとう。ジャカルタ―バンドン間の高速鉄道建設は当初日本が受注すると見られてきたが、不可解な経緯で中国が落札している。韓国と共同開発中の戦闘機に関しては分担金の支払いが滞っており、インドネシアが手を引くのではないかとの報道もある。インドネシア国内での綱引きが、既に決まっている事業にも影響を及ぼす例に枚挙の暇はない。
日本はインドネシアと経済的に長い付き合いがあり、多くの日本人がインドネシアで生活している。1998年のジャカルタ暴動時には約13,000人の在留邦人がいたが、定期便や臨時便でインドネシア国外に脱出した日本人は約9,000人であり、約4,000人もの在留邦人は治安が悪化する中、インドネシアとの関係維持を重視し駐留を継続した。このような事実が両国間の信頼を醸成し、両国関係の緊密化に有形無形の影響を与えることが期待できる。大規模デモの標的となったという歴史の蹉跌を乗り越えるためには、政府同士の関係強化に加え、人間同士の繋がりや、文化への理解というソフトパワーを使用し、幅広いインドネシア国民の気持ちを汲み取る姿勢が必要であろう。
サンタフェ総研上席研究員 末次 富美雄
防衛大学校卒業後、海上自衛官として勤務。護衛艦乗り組み、護衛艦艦長、シンガポール防衛駐在官、護衛隊司令を歴任、海上自衛隊主要情報部隊勤務を経て、2011年、海上自衛隊情報業務群(現艦隊情報群)司令で退官。退官後情報システムのソフトウェア開発を業務とする会社において技術アドバイザーとして勤務。2021年から現職。
写真:代表撮影/ロイター/アフロ