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2023.03.28 安全保障

なぜ日本は次々と食料危機に陥るのか 他国に依存しない「食料安全保障」への道
主権及ばぬ輸入依存の農政脱却に向けて(1)

実業之日本フォーラム編集部

 コロナ禍やウクライナ戦争によって、世界的な食料供給に対する不安が高まっています。大豆や小麦など、生活に欠かせない品目の多くを輸入に依存する日本にとって、危機に備える「食料安全保障」の概念は非常に重要です。他方で、日本は農地が狭く、農作物の国際競争力が低いという課題を抱えています。これまで日本の農政はどのような経緯を辿り、どのように危機に対応してきたのでしょうか。農林中金総合研究所の平澤明彦理事研究員に聞きました。(聞き手:鈴木英介、白幡玲美)

――日本の食料自給率は、カロリーベース38%、生産額ベース63%(いずれも2021年度)と長期的には低下傾向です。日本の農業はどのような課題があるのでしょうか。

 そもそも日本は農地が不足しており、人口1億人を超える国のうち、一人当たり耕地面積は最も小さい。われわれが現在消費している食料を生産するには大幅に農地が不足しており、輸入している農産物を国内で作ろうとすれば約2倍の面積が必要だ。国内の農地は貴重な資源であり、大事に維持して、しっかり活用しなければならない。

 さらに、農地が乏しい国は農業の国際競争力が低い。競争力を測るデータはいくつかあるが、例えば農家一軒当たりの「経営面積規模(=借りている土地も含めた農地面積)」が挙げられる。経営面積規模の平均は、日本の3ヘクタールに対し、EU、米国、オーストラリアの順におおむね一桁ずつ大きくなる。規模の小ささが生産性の差となって現れ、輸入依存の状況を作り出している。

――日本は、稲作は保護し、畜産物や野菜果物の生産を振興する一方、穀物や大豆といった広い面積で作られる「土地利用型作物」は米国などから輸入する「農業生産の選択的拡大」政策をとってきました。これが輸入依存の農政につながっているのでしょうか。

 戦前から戦後間もなくにかけて、日本はコメすら十分に作れていなかったので、それ以外の土地利用型作物を作ることは想定していなかった。ただし、選択的拡大政策は1961年制定の「農業基本法」の下で行っていたもので、同法に代わる形で99年に制定された「食料・農業・農村基本法」では、そうした方針をとっていない。

 ただ、現行の基本法は「何をどれくらい作る」という目標を強く打ち出していないため、旧基本法の下でできた生産の枠組み、品目構成がそのまま残った。そうした中で、輸入自由化や高齢化で産地が苦しくなると、それを支援する施策を打つので、結果として現状が維持される構図となっている。

 基本法が生産目標を大きく掲げていない背景には、過去の政策介入が思ったように進まなかったことへの反省がある。旧基本法では、コメ中心の政策をとった結果、コメの生産過剰を解決できなかった。経営規模を高めて稲作を効率化させようとしたが、農家が兼業化してしまい、小規模のまま維持された。

 また、畜産と野菜果物を拡大するつもりだったが、1970年代以降は米国に貿易自由化を迫られ、逆に輸入が拡大した。畜産は伸びが止まり、野菜果物はむしろ生産が減った。市場に任せる政策に転換したものの、結果的に品目構成が残った形だ。

輸入に依存するほど生産力を失う

――輸入依存にはどのような問題がありますか。

 選択的拡大により、小麦や大豆は輸入しようということになったので、もともと作っていた分も減らしてしまった。当時、輸入元のほとんどは米国だったが、1973年の「大豆危機」では、米国から大豆輸出量を半分カットすると言われ、100%輸入であるトウモロコシも作柄によっては制限するかもしれないと通告される事態となった。

 大豆危機の背景には米国内のインフレ対策があった。当時、米国は全般的なインフレに悩まされていた。日本をはじめ新興国の経済力が増し、米国の穀物や大豆を大量に買い付けるようになったため、米国内の食料価格も上昇していた。そうしたなか、米政府が輸出業者に対し輸入注文の通知を求めたところ、1973年7月15日から8月30日までに180万トンの大豆を輸出する計画になっていた。これは当時、輸出に回せる米国内余剰見込み量の2倍に当たる。国内食料の不足とさらなる価格高騰を招く恐れがあったため、大豆の禁輸に踏み切った。

 日本にとっては想定外だった。当時のニクソン大統領は、「輸出先と協議してから輸出制限について検討する」と述べていたし、それ以前から米国は日本に安定的に穀物を供給すると言っていた。冷戦の真っただ中でもあり、日本は米国の「傘」の下にいれば大丈夫だと思っていた。ところが大豆危機では、輸出先を問わず「一律50%カット」になった。もっとも、米国からすれば世界が取引先であって、日本をひいきすれば他国の割り当てを減らすことになる。「世界のリーダー」であった米国にとって、露骨なことはできなかったろう。

 実際には、値上がりを見込んだ投機目的で大豆輸出を申告した業者が多く、輸出計画自体、過大な見積もりだった。そのため、最終的に3カ月で禁輸措置は止まったが、日本が能動的に対応して収束したわけではない。

 このように、輸入の依存度が高まるほど、供給が不安定化したときに困るわけだ。国内生産であれば日本の主権の範囲内なので「無理」が効く。緊急時には増産してもらったり、流通も統制したりして、いざという時は国民に配給することも可能だ。だが、輸入は相手次第だ。

 当時、日本が工業製品の輸出をどんどん進めて貿易黒字が高まったため、見返りに欧米から農産物を自由化しろという圧力が強まった。貿易自由化の流れと相まって農産物の輸入も自由化したが、国際競争力に劣り割高な日本の農業はシェアを奪われ、結果として貴重な資源である農地の維持もできなくなった。農家が撤退し、農業の国内生産基盤が縮小して、耕作放棄が拡大しつつある。輸入に依存するほど、いざというときに備えて国内生産を維持しなければならないのに、現実は逆で、国内生産力も落ちてしまった。

大豆危機を経て固まった食料安保の方針

――輸出国の事情で食料供給の安定性が損なわれるリスクに備えるため、日本はどのような方策を取ってきましたか。

 まず挙げられるのは、輸入先の多様化だ。当時、日本はとびぬけて大きい輸入国で、そこに供給できるのはとびぬけて大きい輸出国、つまり米国だけだった。そこで大豆危機の後、日本が考えたのは中長期的ないし予防的対策だった。その一つがブラジルの「セラード」地域の開発だ。日本は不毛の地とされていたセラードで、土地改良や大豆の品種改良などブラジルが後に世界最大の大豆輸出国になるのを手助けした。

 さらに、「世界食料需給モデル」を独自に開発した。当時そうした能力を持っていたのは米国の農務省だけだったが、日本がモデルを独自開発することで、輸入国の立場から見た需給シミュレーションができるようになった。

 1970年代から貿易の自由化が進んで国内農業の不安が高まっていたが、80年には日本としての食料安全保障の方針が固まった。具体的には(1)国際貿易と共存すること、(2)妥当な自給率について国民の合意を得ること、(3)潜在生産力(増産したときにどのくらい作れるか)を維持すること、(4)備蓄、(5)国際情報の収集の強化――だ。現状の政策の基本が固まり、99年に制定された基本法の下での食料安保関連施策も、おおむねこの方向に沿っている。
 
 基本法の下では、5年ごとに「食料・農業・農村基本計画」が策定される。2000年の最初の基本計画に従って緊急事態を三つにレベル分けし、それに応じた手順や根拠法など具体的施策を盛り込んだ。具体的には、市場を監視して情勢判断や輸入の要請を行ったり、民間事業者に対して買い占めに対する警告を出したり、需給が逼迫すれば統制をかけて物価をコントロールしたり、配給したりといったことだ。近年は、それに基づく演習も毎年行うことになっている。

 そして、自由貿易協定の交渉でも食料安保を確保すべきだという声が高まり、2015年に日豪EPA(経済連携協定)に食料安保の条項が盛り込まれた。趣旨は大きく二つで、日本向けの食料輸出を制限するときは「最低限にとどめること」と、「事前の通知と協議を行うこと」だ。もっとも、輸出国からすれば自分たちの手足を縛るインセンティブはないため、その程度とタイミングは具体的に記されておらず、実効性は不明だ。 

モデル予測の想定外、「トウモロコシショック」

――2007~08年の食料価格高騰では、米国がトウモロコシの一部をバイオ燃料向けに転用したことで需給が逼迫しました。

 1970年代後半から2000年代前半は、基本的に米国もEUも生産過剰で苦しんでいた時期だ。1990年代前半にかけて、双方とも輸出補助金競争で体力を削り合う状況だった。2000年代前半は米国の穀物価格が低迷し、トウモロコシ農家は苦しんでいた。
 
 一方で、レスター・ブラウンが1995年の著書『だれが中国を養うのか? ――迫りくる食糧危機の時代』で説明したように、今後、中国が経済成長に伴って農作物の需要が急増し、中国が輸入を増やすという期待が高まっていた。米国もトウモロコシの中国向け輸出を増やせると踏んでいた。

 しかし自国の食料安保に危機感を抱いた中国は、国内で大増産を始め、大豆以外は輸入せずにまかなえるようにしてしまった。当てが外れてトウモロコシが余ってしまった米国は、国内で有効需要を作ることにした。それがバイオ燃料への転用だった。

 やがて、中国が「爆買い」を開始したことや金融市場の変動なども重なって資源高となり、原油価格も上がった。原油価格が上がるほどバイオ燃料は有利になる。バイオ燃料を振興する法律もつくった。こうした状況の下、ウォール街から穀倉地帯である「コーンベルト」にマネーが流れ込み、米国ではバイオ燃料工場の建設が急増した。

 そのため、何年もかけて増産するつもりだったバイオ燃料が、2~3年で目標を達成してしまった。そこで米国はもう一つ法律を作ってさらに目標を拡大するという「悪ノリ」をした。その結果、7~8年でバイオ燃料向けトウモロコシが全生産量の4割を占めるまでになった。米国はトウモロコシの世界最大の輸出国で、日本の主な輸入先でもあり、需給が逼迫した。加えて当時は米先物市場で規制が緩和され、投機マネーによって商品市場の値上がりが激しくなった。さらに、2007年にオーストラリアで小麦の不作があったことをきっかけに、世界的に食料価格が高騰した。

――日本には「世界食料需給モデル」があったので、トウモロコシショックにも対応できたのでしょうか。

 この事態を受けて日本でもバイオ燃料の影響に関する研究が進められたが、予測モデルは過去の傾向とシナリオによって導き出すもので、事前にバイオ燃料が急増するシナリオは織り込んでいなかった。予測モデルとは別に、世界の穀物の状況について調査しようということになり、2007年秋に穀物の価格上昇が起きてすぐに農水省で有識者による会議体を立ち上げた。それを受けて下期のうちに南半球の現地調査をすることになり、当研究所が受託して私も同行した。翌08年には農水省に「食料安全保障課(現在の食料安全保障室)」ができて、世界の主要地域を月次でウォッチする体制が整った。

 トウモロコシショックは、米国のほか、南米など他の輸出国も増産したことで落ち着いたが、日本も徐々に輸入国の多様化を図った。その一つがJICA(国際協力機構)による東アフリカのサバンナ開発で、日本・ブラジル・モザンビークの3カ国協力の下、大豆を作ろうとした。セラード開発に成功したブラジルと当地の土壌条件がよく似ていたし、灌漑(かんがい)の文化はないが、川が流れている。また、ブラジルにはこれまで開発してきた熱帯品種の大豆がある。モザンビークの公用語はポルトガル語なので、ブラジル人が育て方を教えるにも好都合だった。

 しかし、開発予定地にはキャッサバ(イモの一種で現地の主食)を作っていた零細な農家と村がたくさんあり、JICA側は「大豆を作って自分たちを追い出すつもりか」と非難された。モザンビーク政府は開発にゴーサインを出していたが、地元の了解は得ていなかった。結局、日本は2020年に撤退を決めた。やはり地元のニーズに合った支援が必要だ。

(後半へ続く)

平澤 明彦
農林中金総合研究所 理事研究員
1992年より農林中金総合研究所勤務。現在の主な研究分野はEU・米国・スイスの農業政策、食料安全保障政策など。2004年、東京大学大学院博士(農学)取得(論文博士)。

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