元朝日新聞記者の岡野直氏によるウクライナ現地取材リポート。前編では、ウクライナ市民の声を聞きながら、人々の戦争への関わり方を見てきた。後編では、ロシア軍による虐殺が明らかになった首都キーウ近郊のブチャの取材を中心に、ロシアによる人権侵害の実態を見ていく。東西で異なる歴史背景を持つウクライナだが、今回の戦争によってナショナルアイデンティティーを獲得しつつあるようだ。
※本記事は、2023年11月15日開催の「地経学サロン」の講演内容をもとに構成したものである。(構成:鈴木英介=実業之日本フォーラム副編集長)
今回はまず、ウクライナという国の歴史文化から簡単に触れたい。
「ウクライナは東西で大きく違っている国だ」とウクライナ人自身もよく言う。歴史的には、西部はオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配が長かった。同帝国はウクライナ語やウクライナ文化が発展することを比較的自由に認めていた。一方、東部はロシア帝国の領土である時代が長かった。ロシア帝国は何度かウクライナ語禁止令を出してロシア語を奨励した。こうした歴史もあって、現在でも東部とクリミア半島を含む南部は、ロシア語を母語とする「ロシア語話者」が多い。文化的にも、東部の方がロシアに対するシンパシーを持つ人が比較的多いようだ。2014年の総選挙比例区では、最多得票の政党が、西は「親欧州」の党、東が「親ロシア」の党と、くっきり分かれた。
ゼレンスキー登場後、それが変わった。2019年の大統領選挙では、現職候補のポロシェンコとの決選投票となり、73%の圧倒的多数でゼレンスキーは勝利した。その後の議会選挙でも、ゼレンスキー大統領の所属政党は、親露派の最大野党を得票率で大きく引き離して第一党となった。背景の一つは、14年から続いた東部ドンバス地方における親露派の分離主義勢力とウクライナ政府側との紛争に和解をもたらす公約を掲げたことだ。親欧派と、ロシアが介入してバックアップする親露派の和解に魅力を感じた人が、ゼレンスキーに投票した。
ゼレンスキーはもともと喜劇俳優で、大統領選では選挙運動をせず、代わりにかつて彼が主演したテレビドラマ『国民の僕(しもべ)』を放映した。ゼレンスキーは高校教師の役で、教室で厳しく政権批判を行った。その様子を生徒が隠し撮りして拡散すると、彼の人気が沸騰し、やがて大統領に担ぎ出される——というストーリーである。この映画でゼレンスキーは、大統領になっても自転車で大統領府に通勤する庶民派大統領として描かれた。前政権では東部の紛争問題のほか、汚職や失業などの課題が山積していた。ウクライナ人はゼレンスキーに一種の新鮮さを感じた、といえる。
転換点となったブチャ虐殺
しかし、紛争解決は素人政治家にできるほど簡単ではなく、ゼレンスキーの支持率はあっという間に20%台に落ちた。しかしその後、彼は大化けして国際的政治家になった。ロシアが大規模侵攻を開始した2022年2月、欧米が「亡命」を勧めたにもかかわらず、キーウ(キエフ)に残って戦争指導を行ったからである。
さらに、その約1カ月後、キーウ近郊のブチャで、ロシアによる市民虐殺が明らかになった。これは、西側諸国のロシアに対する見方を変える大きな転換点となり、国内では、国民がゼレンスキーの下に結束する要因となった。
ブチャ市民の遺体は、街の南部を走る通りに放置された。ロシアは「生きている役者が横たわってるところを撮ったフェイクだ」と主張した。しかし、米誌ニューヨーク・タイムズなどの検証報道や、国連の調査により、ロシア兵が市民を射殺したのは事実と確認されている。
視察後、ゼレンスキーはあえてロシア語でロシア人に呼びかけた。「全てのロシア人兵士の全ての母親にブチャを見てほしい。なぜ何の罪もない普通の市民が死ぬまで拷問されなければならなかったのか」と。この事件が起きるまで、ウクライナとロシアの間で何度か和平のための交渉が持たれていたが、その可能性も断たれた。
私はブチャも取材した。キーウから北西に25キロのベッドタウンで、やはり団地が多い。写真1は団地に敷設した防空壕(ごう)の出入口で、トタンでできている。中に入ると、案内をしてくれた写真の男性住人は、「3月にロシア軍の占領が始まった後はずっと防空壕の中に10数人で隠れて自炊をしていた」と話した。別の男性が、自分の兄弟が上の階で射殺されたという情報を聞いたため、防空壕から飛び出したところを、出入口で見張っていたロシア兵に射殺されたという。ブチャ市民は頭を撃ち抜かれたり、両腕を後ろで縛られ拷問されたりした人が多かった。いまは、殺された者501人の名前が刻まれた慰霊碑が建っている。
消えぬロシアの人権侵害
戦争が長期化するなか、「早く停戦して平和を取り戻すべきだ」という意見があるが、現場を見て私は、「停戦=平和」という図式が成り立たないのではないかと感じた。ロシアによる人権侵害があるからだ。具体的には、「無防備の民間人に対する殺傷」「拉致・尋問・拷問」「性的暴力」「ウクライナの子どものロシアへの強制移送」である。停戦になっても、こうした占領下の諸問題が残るだろう。
私は、拉致の実態を取材した。写真2は、南部ヘルソン州の地元新聞の記者だった人だ。リビウ市の彼の避難先を訪ね、拉致拷問されたときの様子を聞くと、写真のように後ろ手に縛られたという。2022年3月12日、友人から「バス停にいる。今から来てくれないか」と自宅に電話がかかってきた。バス停に行ってみると友人はおらず、代わりに装甲車から兵隊が降りてきて、彼を押し倒し、後ろ手に縛り、装甲車の中に入れ、市役所の建物に連れて行かれた。
彼は、「反ロシアのデモや集会の首謀者の名前と住所、電話番号を言え」と1時間以上尋問された。口を割らずにいると、再び装甲車の中に連れ込まれて銃で手足や胸を殴られ、肋骨に4本ヒビが入った。
ロシア軍の侵攻を受けたへルソン州は、2022年秋に解放された。彼は「ジャーナリストとしての好奇心がわいた」として、自分が尋問された現場に戻った。写真3、4は彼から提供を受けた写真だ。彼は8日間、この部屋に閉じ込められた。他の部屋から悲鳴が聞こえたが、本人は何もされなかったという。「なぜ放置されたと思うか」と尋ねたところ、彼は「それはロシア人のやり方だ。ウクライナ人に恐怖心を植え付け、それによって統治しようとしている」と答えた。こういった監禁施設は、南部だけでなく東部・北部でも確認されている。
国連人権委員会は2023年9月、ウクライナの人権状況に関する独立調査報告を出している。それによると、拷問は組織的で、電気ショックが使われ、死に至るものもあった。へルソンではロシア兵が女性をレイプし、しばしば家族はその隣の部屋に監禁され、暴行の様子を聞かされた。ロシアは国際法の人道に対する罪を犯した可能性があり、「ロシアの責任を追及する措置を求める」と調査委員会は述べている。私自身も別の町での取材で、電気ショックが使われていたことを確認した。軍隊がある国に侵攻するとき、軍事作戦に関係ない電気ショックの装備を持ち込むだろうか。つまり、軍隊以外の組織が、このプーチンの戦争には深く関与している疑いがある。
子どもの強制移送については、ウクライナ政府が公式ウェブサイト「戦争の子どもたち」を毎日更新している。11月11日現在で2万人近くが強制移送され、うち386人が返還された。国際刑事裁判所(ICC)は2023年3月、プーチン大統領と補佐官マリヤ・リボワ=ベロワ氏に逮捕状を出した。ICC検察官の説明では、少なくとも何百人もの子どもがウクライナの児童養護施設などから連れ去られ、多くはロシアで「養子」にとられた。その方法は、例えばウクライナの占領地で「子どもを夏休みのキャンプに連れて行きましょう」と学校の先生が言いくるめてロシア領土に連れて行く、といった手口だ。
ロシアは、保護者が直接引き取りに来た場合に限って移送した子どもを返す方針をとっているが、その一方で、ロシア人が外国人を養子に取る際の手続きを簡略化する法律を制定した。狙いはウクライナ人をロシア人化すること。プーチンの頭の中ではロシアとウクライナは一体なので、彼にとっては自然なことだ。
逮捕状が出たリボワ=ベロワ補佐官は、「子どもを戦場から連れ出し、愛情深い人々の下に置くためにこの仕事を続けます」とコメントしている。つまり彼女の認識では、戦地から子どもを救い出しているということ。彼女自身もウクライナ南東部マリウポリの15歳の少年を養子にし、他の複数の子も育てているという。
プーチンの「ナラティブ」とも戦う
前回も「ウクライナにおけるネオナチズムの台頭」というプーチンの根拠のない主張を紹介したが、彼はウクライナを侵攻する際、侵略を正当化するために「ナラティブ」を用いた。その内容を検証したい。
侵攻開始当日にプーチンが行った演説のポイントは二つある。一つは、「NATO(北大西洋条約機構)がウクライナ領土に軍事拠点を作ろうとした(そのためウクライナを攻撃する)」というものだ。だが、そもそもウクライナはNATO未加盟で、当時はNATOに加盟できる状況ではなかった。従って、事実無根のプロパガンダといえる。
もう一つは、「歴史的領土、隣接する土地ウクライナに『反ロシア』が作られようとしている」というものだ。「反ロシア」という概念についてプーチンは、2021年7月に出した論文で触れている。それによると、14年に首都キーウで起きた市民運動「マイダン革命」以降、ウクライナでは過激民族主義のネオナチが台頭し、「ロシア嫌悪症」が広まった、という。
だが実際は、過激な民族主義者がいるとしても非常に少数にとどまり、ウクライナ最高会議(国会)でも、極右政党はほとんど議席を持たない。
ウクライナ陸軍には公式YouTubeチャンネルがいくつかあり、ある大隊長は、「自分の故郷の町では、ロシア語で教育する学校とウクライナ語で教育する学校があったが、自分はロシア語で教育を受けた」と語る。続けて、「反発されるかもしれないが、自分はロシアを嫌っていない。ロシアの詩も大好きだ」と、司会役の女性に話している。そして彼女も、「実はロシア語で教育を受けたが、もうちょっとウクライナの文化を勉強したかった」とコメントしている。
興味深いのは、このやりとりが全てウクライナ語だということ。それが意味するところは、「ウクライナ人は、東と西、ロシア語話者とウクライナ語話者で分かれがちだが、対立してはいけない」というメッセージだ。そして、プーチンの主張にウクライナ人として対抗しなければならない。プーチンが言う「ウクライナにおけるロシア語話者が迫害されている」という事実はないと反論しているわけだ。もちろん、プーチンが戦争を始めて以降、ウクライナにおける反ロシア感情は非常に強いが、ロシア語が迫害されているという事実は、私が見た限りではなかった。
戦争で国民に生まれた一体感
2023年1月にウクライナで行われた世論調査で「あなたに希望を与える言葉は何か」と聞くと、最も多かった言葉は「勝利」。面白いのは次点として「ウクライナ人」という言葉があることだ。
これまで見てきたようにウクライナは分裂気味の国家だったので、なかなかナショナルアイデンティティーが育たなかったが、世論調査を見ると、いまウクライナ人に一体感が生まれてきているともいえる。それを支えてるのは経済的な豊かさだ。
写真5はキーウのスーパーマーケットだ。クリスマスツリーが売られており、それを飾る品がたくさん置いてある。写真6はペット用品。種類が多く値段も安い。私が東京で普段買い物をするスーパーよりペット用品の種類は豊富だ。理由の一つは、鉄道輸送が生きているということ。ドイツなどからも製品が入ってきている。
輸送の安全を担保しているのは、ミサイル防衛システムだ。米国が供与する地対空ミサイルシステム「パトリオット」がキーウに配備され、防衛を担っている。地方にも防衛システムはあるが、ソ連製などが多く、性能が落ちる。いかに西側の軍事援助が不可欠かということだ。
2023年6月からウクライナ軍は反転攻勢を始めた。ウクライナ軍としては、南東部ザポリージャ州のロボティネ付近を南進して、ロシア軍占領地を東西に分断し、それによってクリミア半島のロシア軍を孤立させようという作戦構想だった。
それがうまくいっていない。大きな要因は、ロシア軍が戦場に大量の地雷を敷設しており、これを突破できないことだ。また両国はドローンを大量に投入し、互いの攻撃が手に取るように分かるため、動きが取れない。活動の妨げとなる冬が来て、反転攻勢の成功は難しい。ウクライナ軍のワレリー・ザルジニー最高司令官は、最近の英エコノミスト誌への寄稿で「両軍の攻勢が困難になっているが、このパリティ(均衡)は続かない。なぜならロシアの方が兵力が多いからだ」と述べている。
ザルジニー将軍は寄稿の中で戦況を左右するポイントを複数挙げているが、あえて一つ選ぶと、「航空優勢を握れるかどうか」だ。いまはロシアの方が航空機もパイロットも多い。機体性能と情報収集能力に優れる米戦闘機F-16が西側諸国から供与され始めたが、実戦配備が遅れている。ほかにも、地雷処理や電子戦の強化など課題は多いが、それらは西側の支援にかかっている。
ウクライナを取材して厳しい戦地を見てきたが、それでも市民を含め、ウクライナの人々は戦闘を続ける意思を持っている。ただ、問題は装備だ。優れた飛行機、大砲、電子戦装備が不足すれば、戦線を維持するのは大変だ。それがウクライナの現実だ。
地経学の視点
ウクライナは東西に長く、それぞれ隣接する国の影響を強く受けてきた。旧ソ連の構成国でもある。そうしたバックグラウンドがウクライナ国民のアイデンティティー形成を難しくし、プーチン大統領が執着する理由の一つになっている。
ソ連崩壊以降、旧バルト3国の加盟など、NATO(北大西洋条約機構)は東方に拡大しており、ロシアにとっては脅威に映る。ウクライナがNATOに加わる前に占領してしまいたい、という恐怖と野心がプーチンを戦争に駆り立てたのだろう。
岡野氏は、プーチンが仕掛けた戦争によって、ウクライナの人々にアイデンティティーが芽生えたと言う。プーチンにとっての誤算は短期決戦の目論見が外れただけではなく、ウクライナの人々をより強く結束させたことではないか。
一方で、ウクライナの反攻作戦は失敗し、ゼレンスキーと軍の確執も報じられている。必要なのはウクライナ支援の継続だ。「力による現状変更」はどの地域でも起こり得る。日本が有事に陥った際には、有志国への支援の実績が問われるはずだ。広い意味で、ウクライナ支援は日本の安全保障にもつながっている。(編集部)