米ソ冷戦が終わって世界は経済のグローバル化が進み、米国と中国は互いに大きな利益を得てきた。だが中国は、「いずれ民主化する」という米国の期待とは裏腹に、権威主義に基づく自国の価値観で国際秩序の再編を試みており、両国の対立が激化している。これを新たな冷戦と見る向きもあるが、日本総合研究所の呉軍華上席理事は、現在の米中関係は「冷戦」ではなく「冷和」だと主張する。そして、両国が対決に向かうにつれ、「和」を切り抜くためのデカップリング(分断)を避けて通るのは困難だとの見方を示す。その背景や、日本に求められる行動について語ってもらった。(編集部)
今の米中関係を「新しい冷戦」と呼ぶ向きもあるが、冷戦当時と今では状況が異なる。私は現在の米中関係を、冷たい平和、「冷和」と表現している。
当時大国だった米国とソ連による冷戦では、政治体制、イデオロギーや価値観の違いによる東西の競争が起きていた。そのため両陣営はブロック化し、互いの交流はほとんどなかった。米ソとも核抑止力が効いており、真正面から戦えば大きな損失になる。そのため、両国の摩擦の解消は代理戦争で解決してきた。ベトナム戦争などが「親」同士の致命的な勝負を避けて、衝突の緩衝材になった側面はある。
だが、今の大国である米国と中国は、政治体制やイデオロギーの対立という構造は冷戦時代と変わらない一方、経済や人の交流によって、持ちつ持たれつ、「和」の関係になっている点が大きく異なる。
経済のグローバル化によって形成された「和」があるだけに、中国経済に異変が生じれば直ちに世界に影響が及ぶ。米中が対立から対決に向かうにつれて、「和」を切り落とす必要が生じるが、それは同時に自分の身も切ることになる。その過程で、米中間だけでなく、自由民主主義陣営でも大きな軋轢(あつれき)が生じかねない。この意味で「冷和」は冷戦よりも複雑な構造を持っており、よりリスキーだ。
米中対立の本質は文明の対立
ではなぜ冷戦が終結し、「和」の時代になったのに、米中は「冷和」に至ったのか。それは、冷戦後、西側陣営がある種の慢心に陥ったことと大いに関係があろう。「中国をサポートすることによって中国経済が成長し、中産層が拡大すれば、中国の政治がいずれ多元化する」という見方はその典型だ。西側陣営が、民主主義と共産主義の対立の本質や、長い歴史の中で形成された中国の文明的な特徴を理解せず、あるいは無視して自分よがりの発想におぼれるなか、中国は彼らの期待と全く違う形で台頭してきた。
今や中国は、西洋文明と産業革命を端緒とした西洋の近代化に対して、自由民主主義の普遍性に異を訴え、権威主義に基づく発展モデルをベースに「中国式現代化」を主張し始めている。経済という「和」を中心に、持ちつ持たれつで結ばれている一方、両国が価値観・イデオロギーに加え、文明的にも深刻な対立構造を抱えてしまったわけだ。
西側の期待、すなわち中国を支援し、それによって経済成長が続き、人々の所得が上がれば、いずれ社会が多元化して中国が民主主義陣営に合流する――という考えは、半分は本音だろう。だが、もう半分は口実かもしれない。100年以上も前から、中国という市場を開放したらとてつもないスケールになると言われていて、西側の経済界にとって、中国とのビジネスは夢だったからだ。
中国は1970年代末に「改革・開放」路線を始め、税制や土地取得等の優遇政策を設けて外国資本を引き付けようとした。西側資本はその機会に引っ張られ、価値観の違いには目をつぶった。典型は、民主化を求めた中国市民を人民解放軍が武力で鎮圧した「天安門事件」後の動きだ。西側は、この事件で中国の政権、体制の本質を分かったはずだ。しかし当時の米ブッシュ政権や西側の論調は、「もっと成長すれば中国は民主化するはずだ」というものだった。自分よがりな発想であり、半ば資本家の主張の代弁でもあった。
こうして中国は、いわゆる民主主義の基準で見た場合、大きな人権問題を抱えているにもかかわらず、永久的な最恵国待遇が与えられ、2001年にはついにWTO(世界貿易機関)への加盟が認められた。
米政治学者フランシス・フクヤマは、ソ連崩壊後に『歴史の終わり』を著し、民主主義が勝利して、自由主義と共に普及していくと主張した。世界は同じ価値観を持ち、天安門事件があっても、経済成長が続けば中国はいずれ変わる。経済だけじゃなく、世界平和にもつながる、と。だが、それはある種の傲慢(ごうまん)というべきかもしれない。
「言質」をとられた西側
今、米中対立のはざまで、台湾有事のリスクが取り沙汰されているが、中国の代理として台湾を攻めに行く国はないだろう。他方、西側も、ウクライナのように台湾に間接支援を行えるかといえば、海洋国だから武器の運搬は難しい。
中国が台湾に上陸、あるいは封鎖するだけでも、台湾は極めて難しい状況に直面する。それを許さないのなら、米国、日本、オーストラリアなどは参戦の可能性を含め、巻き込まれるのだろう。この場合、「冷和」構造の下、軍事だけでなく経済にも激震が走る。
米国にとっては、中国の軍事力のさらなる強化につながりかねないような技術の移転を避け、世界経済への影響を抑えるために、「和」の分断、すなわちデカップリングによって「冷和」構造を打破する必要があるのだろう。
だから米国は、半導体の対中輸出規制はじめ、デカップリングに注力している。もちろん米景気にも影響してくるし、中国は強く反発している。その影響は、ミクロのレベルでは企業の業績、マクロでは金融経済危機を引き起こすかもしれない。デカップリングは自らの身も切らなければならないので、ホワイトハウスは難しいハンドリングを迫られている。
米バイデン政権は、米中の衝突回避のための「ガードレール戦略」もとっている。本質的に戦争をしたくないという思いの表れだろう。デカップリングで思うように対中貿易ができないという米経済界の懸念をも反映しているかもしれない。
衝突を避けるという意味では、中国も「闘而不破(争いはするが、破局までは至らせない)」という方針を掲げているようだ。その最大の理由は、技術や資本を西側から吸収したいからだ。「現時点ですぐ対決すべきではない」という点では米中の認識は共通しているが、その思惑は違う。
中国はデカップリングに反対し、自由貿易や経済のグローバル化の維持を主張している。欧米でもてはやされている「ポリティカルコレクトネス(政治的な正しさ・妥当性)」を踏まえてのことだろう。これまでグローバル化や自由貿易は、西側によって絶対的な善、価値観のように語られてきたからだ。中国の李強首相が全人代閉幕後の初の記者会見で「デカップリング論をもてあそび、どれだけの人が利益を得られるのか」と言ったのは、「ポリティカルコレクトネス」で手足を縛られている西側へのメッセージだ。
おそらくホワイトハウスや米国の一部は、米中の「文明の衝突」の深刻さに気づき、今からデカップリングをやらなければ大変なことになると思っている。しかし、米企業としては中国に係る利益を失いたくないからデカップリングの足を引っ張る。ある意味、米国は「挙国体制」はできない。民主主義は、鶴の一声で物事が決まるような構造を持っていないからだ。
「左のポピュリズム」が米国を弱くする
米国と中国の衝突リスクが上がっている背景には、ポピュリズムによる米国内の分断もある。国内の分断でよく聞かれるのは、トランプ前大統領に代表されるポピュリズムへの批判だが、私の考えはやや違う。トランプのような右派・保守派だけでなく、「左」のポピュリズムも今の事態を招いた要因だ。つまり、自らの文化や歴史を否定する一方、経済的に平等、公平という名目でばらまくポピュリズムだ。米民主党の左派、進歩派に代表される考えで、勢いづいている。
もちろん「右」のポピュリズムは醜い。しかし、それは例えば人種差別のように、誰でも悪いということが分かる概念で、警戒しやすい。しかし、「左」は反論しにくい「平等・公平」といったきれいごとを唱える。20世紀に共産主義があれだけの広がりを見せたのは、掲げていたスローガンがきれいだったことが大きな要因だろう。
報道によると、サンフランシスコで審議されている法案の中には、一定の基準を満たした黒人に1人500万ドルの補償を行うというものがある。「麻薬による違法行為で刑務所に入ったことがある黒人」というのも基準の一つになるようだ。差別されたから麻薬に走ったという理屈のようで、背景には「米国は過去の黒人奴隷制度に対する補償をすべきだ」という論理がある。
今までは財産の継承権について散々議論してきたが、こうした動きは被害補償にも継承権を付与するような発想だ。実質的な血統主義ではないか。もちろん、人種差別やジェンダー差別は決して許してはならない。だが、人種やジェンダーといったアイデンティティーを基準に逆差別するのもいけない。
これでは共産党が唱えた「階級闘争」と瓜二つの発想ではないか。こうした動きをロシアのプーチン大統領は、「ソ連はかつて理想社会を作るというユートピアを目指し、崩壊した。米国たちは同じことを今やろうとしているのではないか」と、ウクライナ戦争の前に鋭く皮肉った。
中国も、「左のポピュリズムが浸透するにつれて、米国は衰退の道を辿る」と見越しているかもしれない。社会が分断され、財政も悪化している。米国でインフレが高進したのは、コロナ禍対策もあるが、バイデン政権になってからバラマキ政策に一層力を入れたからでもあろう。大盤振る舞いで、一時期は手厚い休業補償で、人によっては働かない方が稼げたほどだ。
歴史を振り返れば、ユートピアは必ずディストピアになる。私は2016年から、「米中関係には文明の衝突の構造がある」と主張してきた。ポピュリズムによって米国が分断されていることで、中国は「自国の文明観の方が米国より優れているのではないか」と自信をつけている。習近平国家主席は、昨年の党大会で「中国式現代化」を唱えた。これまで近代化とは、産業革命から始まる西洋化だったが、そのアンチテーゼが共産党体制の下で成長を目指す中国式現代化だ。
さらに中国は今年3月に「グローバル文明イニシアチブ」を打ち出した。同イニシアチブは、「各国が文明の対立を乗り越えてそれぞれの発展モデルを認め合うようにしたい」と提唱するが、本音は「近代文明は西洋文明に基づくものだけではない。われわれはその代替案を提供する」ということだろう。
デカップリングは避けられない
米中の衝突を避ける道があるとすれば、一つは中国が変わり、いわゆる自由民主主義の価値観に合流することだが、今までの動きを見る限り、おそらくないだろう。もう一つは、米国が「諦める」ことだ。米国は覇権国だと批判されることも多いが、自由民主主義を守ってきた。米国がその立場を諦め、相互不干渉に基づくモンロー主義に戻れば、衝突は当面起こらないかもしれない。
だが、おそらくいずれも起きないだろう。皮肉的だが、米国も中国も究極的には理念の国だ。だとすれば、平和的なデカップリングを行って「和」を切り離し、とりあえず各々の世界で生きていくことが衝突を避ける一つのチョイスになるかもしれない。いわゆる「一つの地球・二つの世界」で両者並存の可能性を探ることだ。
ポスト冷戦が偶然長く、われわれが偶然その時期を生きてきたために、あたかもその時代が未来永劫続くとの錯覚を持ったかもしれない。しかし、後世から見ると、この30年間、東と西の価値観が併存したまま、経済のグローバル化が大きく進展し、世界がそれなりの平和を保ったのは異例だったということになるのではないか。パワーバランス、特に軍事と経済のパワーバランスがたまたま西側に大きく傾斜した故に平和が保てていたのかもしれない。しかし、今やこのようなパワーバランスは大きく崩れつつある。
日本に欠けているのは当事者意識
日本は、デカップリングは避けられないことを前提に行動しなければならない。「和」という表現は聞こえがいいが、決して「冷和は冷戦よりもましだ」との認識を持ってはいけない。
日本には、米中対立が進むなか、どちらにつくか「踏み絵」を踏まされるのは嫌だというムードがある。傍観者というか、第三者的な発想だ。しかし、米中対立はこれからの世界がどのような世界になるかを巡っての対立だ。日本はどの世界を目指すべきかとの立場を決めて「当事者」として動くしかない。
日本社会では、今の中国の姿勢を「かつて日本が掲げ、実現できなかった『大東亜共栄圏』を中国が進めている」と前向きに評価し、反米意識を持つ者もいる。中国と一緒に運命共同体を作るか、米国と共に自由民主主義を価値観とする社会を守るか。日本自身が決めて積極的な役割を果たすことだ。
ただ、重要なのは価値観が同じかどうかだ。安全保障の問題だけではない。日米にも貿易摩擦が高まった時期があったが、米国は、日本がいくら成長しても米国の価値観を脅かすとは思っていなかった。だから決定的な衝突はなかった。
日本企業の経営者からよく聞かされるのは、「中国市場なしには会社がやっていけない」というセリフだ。だが、「離れられないから仕方ない」というのは思考停止であり、思考の怠慢でもある。まず何をしたいかを決めよう。どんなに懐かしんでも、冷戦後のグローバル化の饗宴(きょうえん)はもう終わった。その「後始末」にはコストが絶対発生する。いかにそのコストを最小限に抑えて、会社を次の歴史的な局面に導くかを考える。それも経営ではないか。