かねてから国境紛争を抱え、小規模な争いが日常的に発生していた中国とインドの国境警備部隊が、ラダック連邦直轄領北東の実効支配線(Line of Actual Control: LAC)に位置するギャルワン渓谷で激しく衝突したのは、6月15日のことであった。インド陸軍の発表では、戦闘によって合計20名の死者が発生しており、これは1975年以来、45年ぶりのことだとされる。
1962年の中印国境紛争で激しく衝突した両国ではあるが、1993年に合意された「国境LAC沿いの平和と安寧の維持に関する協定」をはじめとして、国境をめぐる紛争防止のために協力も行ってきている。1996年には、「国境LAC沿いの軍事的信頼醸成に関する協定」を締結し、LAC付近の部隊の削減に同意するとともに、エスカレーション防止のためのコミュニケーション手段の確保などに合意した。2003年6月には、バジパイ首相(当時)が訪中し、「二国関係および包括的協力に関する宣言」に署名して軍事交流の拡大を図り、2005年4月には、「平和と繁栄のための戦略的・協力的パートナーシップ」に合意して、中印の戦略的・協力的パートナーシップの発展が重要であるとの共通認識を持つまでに至っている。
2008年に、インド北東部のヒマラヤ山岳地帯に位置するアルナーチャル・プラデーシュ州を巡り、両国関係が悪化したことを受けて国境交渉は停滞したが、それまでの一連の合意によって協力関係は維持されてきた。実際、今回の衝突までは、両軍の衝突は発砲を伴わず、死者が発生することもなかった。それには、国境問題では対立しながらも、経済的には中国に強く依存しているインドの立場も少なからず影響していると考えられる。
OEC(Observatory of Economic Complexity)の調査では、2018年のインドの輸入総額は4,920億ドルとされ、そのうち中国からのものは755億ドルに達して全体の15.4%を占め、第1位となっている。同じく輸出総額は3,260億ドルで、中国への輸出は166億ドル、5.1%となっており、米国、アラブ首長国連邦に次ぐ3位となっている。その一方で、2018年の中国の輸入総額は1兆6,100億ドルでインドからは166億ドル、輸出総額は2兆5,900億ドルでインドへは755億ドルとなっている。総額に対する比率は、輸入で1.03%、輸出は2.92%と、インドの中国への依存度と比較すると大きくはない。
5月初旬、ギャルワン渓谷よりも南に位置するパンゴン湖で発生した両軍の殴り合いや、インド北東部シッキム州のLAC付近で発生した衝突による緊張を緩和するために、両軍による協議が継続されていた中で今回の衝突は発生した。中国中央電視台(CCTV)が、インド軍の橋やヘリパッド建設を目的としたLACの越境を映像付きで報道し強く非難する一方で、インドのNews18では、中国人民解放軍がLACのインド側にテントを設置したことが衝突のきっかけであったと報道されている。両国のメディアは、ともに相手に責任があるとの主張を崩してはいないが、電話会談を行ったインドのスブラマニャム・ジャイシャンカル外相と中国の王毅外交部長は、同様の主張はしたものの、状況のエスカレートを防止することで早々に合意した。
2国間の安全保障関係が経済的な影響によってのみ規定されることはないが、現状維持を目指す場合にはその程度にも左右されるものの、経済が考慮要因として大きくなる傾向にあることもまた事実である。7月21日付のザ・タイムズ・オブ・インディアの報道によれば、ジャイシャンカル外相は、今回の中国によるLAC越境問題が、インドが歴史的に固執してきた非同盟概念から離れ、これまでの国際的・経済的な協定を見直し、新たな地政学的オプションを探す契機になっていることに言及している。中国の「一帯一路」構想にも一定の距離を置くインドは、これからどのような外交政策を展開するのだろうか。
サンタフェ総研上席研究員 米内 修
防衛大学校卒業後、陸上自衛官として勤務。在職間、防衛大学校総合安全保障研究科後期課程を卒業し、独立行政法人大学評価・学位授与機構から博士号(安全保障学)を取得。2020年から現職。主な関心は、国際政治学、国際関係論、国際制度論。