ウクライナ危機や米中摩擦による世界の分断が急速に進むなか、利害が対立する国との関係修復はより困難を極めていくだろう。かつて、第二次世界大戦後の日本はいかにしてアメリカとの関係を修復していったのか。そこでは東京都港区に位置する「国際文化会館」が大きな役割を果たしていた。完全な民間独立でありながらも国際的役割を果たしてきた国際文化会館でいま理事長を務める近藤正晃(まさあきら)ジェームス氏に、国際社会の進むべき方向や日本が担うべき役割について聞いた。
戦争を起こさないための「拠点づくり」
白井:近藤さんは2019年より公益財団法人国際文化会館の理事長を務めておられますが、その経緯と現在の活動について教えてください。
近藤:まず、国際文化会館が設立された背景からお話しします。国際文化会館は1952年に設立されたのですが、そのきっかけとなったのは実業家のジョン・D・ロックフェラー3世とジャーナリスト松本重治の出会いです。2人が初めて出会ったのは1929年の太平洋問題調査会(IPR)第3回京都会議でのことでした。IPRは1925年に太平洋諸国間の相互理解を目的としてアメリカを中心に構成された民間の調査研究機関です。
その後、第2次世界大戦後の1951年にジョン・D・ロックフェラー3世は対日講和条約締結の準備交渉のため、当時ロックフェラー財団理事長で米国大統領特使だったジョン・フォスター・ダレスと共にアメリカから派遣され再来日し、松本と再会しました。
アメリカのニューヨークを本部とするロックフェラー財団はフィランソロピー(社会的な公益活動)を目的とし、石油産業で富を築いたジョン・ロックフェラーによって1913年に設立された世界最大級の民間慈善団体です。
ジョン・D・ロックフェラー3世と松本は日米が戦争を回避できなかった後悔を共有し、文化交流を通じた日米の相互理解、ひいては国際相互理解の促進を目指して「文化センター」の設立を構想しました。ジョン・D・ロックフェラー3世はその提言書をダレスに提出しています。そして、ロックフェラー財団からの資金提供とともに吉田茂元首相をはじめとする著名人たちが募金を呼びかけ、プロジェクトの総額2億円のうち1億円はロックフェラー財団から、残りの1億円を日本のマッチングファンドで集めることになりました。
当時の首相の月給が11万円だったことからもわかるように、当時の1億円は巨額と言えましたが、法人7000社と個人5000人からの拠出によってなんとか集めることに成功し、国際文化会館が設立されました。
当時のアメリカは戦後の日本やアジアに対して非常に悲観的でした。戦後の焼け野原だった日本にフィランソロピーで文化交流の場所を作るというアイディア自体が、今で言うと内戦状態のシリアに庭園をつくるために1億円拠出し、そこで平和を語り合おうとするような荒唐無稽なものだったからです。しかし、このフィランソロピーにより、結果的には戦争による厳しい関係性が続いていた日米が現在のような良好な関係に育ち、経済発展やアジア全体の平和も達成されています。
こうして、国際文化会館は、戦前に戦争を阻止できなかった日米を中心とした国々のメンバーが中心となり、大きな寄付に支えられ、国際対立を再現させないための拠点となっていきました。
「お金持ちの趣味」ではない
近藤:ジョン・D・ロックフェラー3世が日本に再訪した時は戦争が終わってまだ数年しか経っていなかったため、日米両国の間には敵対国としての感情が色濃く残っていましたし、経済や安全保障について対話できるような土壌もありませんでした。
ある日、ジョン・D・ロックフェラー3世が吉田茂元首相の娘婿で実業家の麻生太賀吉(あそうたかきち)の家に訪問した際、麻生家にあった東洋美術のコレクションを見て美しさに我を忘れ、「日本人はこんなにも美しい作品を作れるのか」と感銘を受けたそうです。
こうして彼は人々による文化の相互理解と民間交流が国際平和の基礎となることを体感したわけです。経済や政治を議論する前提として人間性を相互に尊重することは重要であり、文化・芸術にはそれを実現する力があると感じたため、今や世界最高級のコレクションとも称されるアジアコレクションを集め始めました。
このコレクションを寄贈した先が、アジアと他国の相互理解のためにジョン・D・ロックフェラー3世によって創設された民間非営利組織「アジアソサエティ」であり、私はその評議員も務めています。アジアソサエティは美術・芸術を中核にしてアーティストの交流にも取り組み、「フィランソロピーが何のためにあるのか」や「文化や芸術がどのような力を持っているのか」について考え国際的な相互理解に貢献しています。よく、平和な時代にお金持ちが趣味でお金を使っているだけではないかなどという皮肉が言われますが、ジョン・D・ロックフェラー3世の考えは全く違うところにありました。
昨今は、地経学・地政学の時代であり、かつ社会システム自体が不安定になっています。このような状況だからこそ社会的な関心が現代アートに向いているのではないでしょうか。行き詰まった時には、アートやそれを支えるフィランソロピー、さらにそれを信じている人たちの自由なみずみずしい支援によって、既存のシステムを越えた新たな可能性やつながり、課題を解くヒントを見つけていけるのではないかと思います。
「ここだけは常に窓口が開いている」場所に
白井:国際文化会館の歴史は、まさに戦後の日米関係そのものだったのですね。近藤さんが理事長に就任され、今後この国際文化会館をどのような形で発展させていこうと考えていますか。
近藤:国際秩序の安定への貢献やグローバルな課題への挑戦をしていきたいです。私は、現在の世界平和そのものを脅かす可能性のある場所はアジアだと考えています。このような状況下では、米中対立を中核とした課題における日本の立ち位置について、独立民間の立場できちんと議論・交流できる場を作ることが必要だと思います。
現に、日中・日韓関係に関しての事柄は発言しづらく、その言論空間も狭くなりつつありますが、国際政治経済はどうあるべきかをきっちり議論し日本の道筋を創っていくことが私たちの大きなミッションであり、これは国同士の対立を生みたくないという私たちのルーツそのものなのです。
第二次世界大戦後の冷戦期においても、国際文化会館はそれまでの敵対国との関係づくりにおいて中核的な役割を果たしていました。当時の日米関係は現在からは想像もつかないほど難しい状況にありましたが、その中で国際文化会館は冷戦期の日米関係の枠組みのあり方を議論する場所になっていたのです。
そして、米中対立の時代が本格的にスタートした現在、私たちはアメリカのみならずアジアにも活動を広げ、アジア・太平洋全体の平和をどう作るかを考えなければなりません。その時には、特に日本の地政学・地経学のあり方が大きなテーマとなり、上述のような文化的な活動を広げていく必要性も出てきます。米中や日中、日米、日韓、北朝鮮、イラン、アフガニスタン、ミャンマーなどの国家間関係に関して、民間独立で「ここだけは常に窓口が開いている」という場所にしていくことも課題の一つですね。
また、世界には、ハイポリティクス(国家の存続に繋がる重要性が高い政策領域)な国際関係問題だけではなく、気候変動、貧困、ダイバーシティなどのさまざまな社会課題が山積しています。私たちは、国際的な連携を行いながらこれらの課題を解決していかなくてはならないので、世界経済フォーラム(年次総会の「ダボス会議」で知られる、世界の現状改善を目的として活動する国際非営利財団)やアスペン研究所(政治経済分野におけるリーダー養成のために1950年に設立された国際非営利団体)など様々な機関との連携も図っているところです。また、それらは日本だけでは解決できない問題でもあるので、世界の若い社会起業家やテクノロジストなどといったステークホルダー等の仲間と共に取り組みたいとも思っています。
これだけ長い伝統と素晴らしい建築と庭園があり、民間独立でありながら国際的な役割も果たせる機関は日本にそれほど多くありません。ですので、国際文化会館は世界のあらゆる問題に対して中核となって活動できる拠点として存在していければと考えています。