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2022.07.29 コラム

日豪「準同盟関係」構築の芽吹きと第一次安倍政権の役割――追悼 安倍元首相と豪州(1)
寺田貴の「豪州から世界を見る」(3)

寺田貴

 日本で史上最長の政権を築き、首相退任後も強い政治的影響力を保持した安倍晋三元首相の突然の死去は世界に衝撃を与え、その損失を惜しむ声は、特に海外では途絶えることがない。トランプ前米大統領やエルドアントルコ大統領など強権的な指導者とも個人的に親密関係を築くなど、従来の日本の首相にはなかった独特の外交を展開し、他国の指導者からも頼られるなど、国際政治では大きな存在感を示してきた。

 中でも、近年、中国との関係が史上最悪と称されるほど落ち込む一方で、「準同盟国」として対日関係を最重視してきた豪州にとって、安倍元首相の逝去は日本におけるその最大の貢献者を失ったことを意味する。アルバニージー首相は、シドニーのオペラハウスをはじめ、メルボルンの市庁舎やアデレードの南オーストラリア州議会、ブリスベンのストーリーブリッジなど、主要都市のランドマークを白と赤でライトアップさせて、安倍元首相の悲劇的な永眠を国全体で悼んだ。

 ここでは、米国に準じる日本の防衛・安保の役割を担う豪州との「準同盟」関係の構築において、安倍元首相が果たした役割を主に豪州側の視点から論じてみたい。

 安倍政権は第1次(2006~7年)と第2次(2012~20年)が存在するが、その特徴的なこととして、その間、つまり2007年から12年の5年間、日豪関係はほとんど進展せず、その無風の時代を挟んだ安倍両政権時に日豪関係が急速に進展している点にある。まず初回の本論では、第1次政権時の対豪関係を「準同盟」関係の基礎作りとみなし、ほぼ何もなかった安全保障分野での礎作りと、経済分野では農業大国豪州とでは困難とみなされた自由貿易協定(FTA)構築に焦点を当てる。次回では第2次政権で注力した日豪安全保障関係の法制化、そして日豪FTAの締結と、安倍元首相が参加を決定したTPP(環太平洋経済パートナーシップ協定)交渉での両国の協働をも詳説する。最後の第3回では、多国間制度の中の日豪関係と安倍外交の焦点を当て、インド太平洋地域概念の誕生と進展、さらに現在、中国が警戒感をあらわにするQUAD(日米豪印枠組み)への日豪の取り組みについて論じてみたい。

日豪安保協力

 2000年代から米国の同盟国としてテロとの戦いを共にしてきた日豪両国だが、安保・防衛協力の嚆矢は対米テロ関連、しかも危機的状況下での協力に見いだせる。それは2005年2月、イラクのサマーワに駐留した日本の自衛隊の護衛のため、イラクへの増兵を行わないとの選挙公約を覆してまでも、新たに450名の豪州兵を派遣し、その任につかせたハワード首相(当時)の決定に端を発する。

 その際、小泉政権の官房長官を務めていた安倍元首相は豪州の戦略的重要性を強く認識したと言われ、翌2006年の首相就任に当たり出版した『美しい国へ』では、「自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値観を共有する」日豪が「戦略的観点」でもってより一層協力を深めることの重要性を訴えている。

 その豪州との強い協力意識は、まず2007年3月、「安全保障協力に関する日豪共同宣言」にハワード首相と調印したことに見られる。同宣言は共通の価値観を強調し、互いの安全保障・防衛、そして周辺地域の秩序形成に今後両国が協力して関与していく「意思」を示しており、先に述べた豪州軍のイラクでの協力に対する、日本の、そして安倍元首相の思いも詰まっていると言えよう。

 その3か月後には「日豪外務・防衛閣僚協議」、いわゆる「2+2協議」を設立し、同月には、自衛隊が米豪合同軍事演習(タリスマン・セーバー)に初めてオブザーバー参加を果たしている。9月には先の「日豪共同宣言」に基づくより具体的な「行動計画」に合意、翌10月には自衛隊護衛艦への攻撃を想定した訓練が、日米豪3か国初のP-3C訓練として九州近海で実施された。

 このように、第1次政権は1年と短命政権ではあったが、日豪の安保・防衛協力の礎が急速に構築されており、安倍元首相の関与が色濃く反映されている。それと同時に、米同盟国同士の安保協力を推進する、いわゆる「ハブアンドスポークス・プラス」の意向も働いており、日豪安保協力は、日米豪の3か国協力枠組みと並行して進展していることは、安倍がその生みの父とも称されるQUAD形成のための重要な方策ともなる動きであった。

農業大国豪州とのFTAへ向けて

 日豪関係進展における他方の第一次政権の特徴は、日豪自由貿易協定(FTA)の交渉開始である。

 FTAを含む日本の貿易交渉の歴史は、いかに農産物自由化を避けるかとほぼ同意義である。その意味で、砂糖や大麦、小麦、果物などの多くの農産物を輸出する豪州と日本がFTA交渉を行うとは長く想定されてこなかった。筆者は2000年代前半、日本の農水省幹部に「豪州とFTAができるなら、日本は世界のどの国ともFTAを結ぶことができる」と言われたこともあった。

 しかし、先述の2005年2月のハワード首相の自衛隊護衛のための豪軍増兵決定が、日豪FTAへの道を開いた。つまり、この豪州の政治決断への「見返り」として、日本の農産物市場の自由化を欲する豪州が求めてきたFTAを、小泉政権が受け入れたのである。同年4月に両首脳は会談し、その際に小泉首相が豪州の派遣に謝意を示すとともに、FTA共同研究の開始に合意している。その共同研究の報告書を受け取り、正式交渉へのゴーサインを出したのが、小泉の後を継いだ安倍第一次政権である。その際、祖父である岸信介首相が半世紀前の1957年に箱根にてメンジーズ豪首相と調印した日豪通商協定からの進展を意識したのは、その後の安倍元首相の豪州関連演説等から推察できる。

 同協定は最恵国待遇と無差別原則という戦後国際貿易体制の原則を盛り込み、50年代当時、欧州での高関税による差別的扱いに苦しんだ日本の製造品が世界市場に出ていく契機ともなっており、豪州からの良質な鉄鉱石の輸入も含め、その後の高度成長に大きな貢献を果たしている。

 岸は豪州を初めて訪れた日本の首相であり、メンジーズは日本を訪問した最初の豪州の首相でもあった。それから半世紀、同じ保守派のハワード首相と今度は両国間の関税を撤廃しあい、経済関係をさらに強固にするFTAの締結は、安倍元首相にとって、安保と経済の両面で価値観を共有する豪州との関係を戦略的に深めるという、自著『美しい国へ』で描いたシナリオを実現する上で、不可欠な通過点であったとも言える。安全保障の観点に起源を持つ日豪FTAは日本の通商政策史の中でも異彩を放っており、次回で扱うように、その過程において、安倍元首相は決定的な役割を担うことになる。

 しかし2007年9月、シドニーでのAPEC首脳会議から戻った安倍元首相は、その健康状態の悪化から突如の辞任を発表した。豪州では、それから3か月後、12年近く続いたハワード保守政権も終焉を迎えることとなり、両国において政治的支柱を失った日豪関係は、以降、「冬の時代」を迎えることになる。

 特に豪州では中国語を解し、元外交官として中国駐在も経験するラッド首相が政権を奪取したことで、豪州の中国傾斜に拍車がかかり、経済・外交での日本の存在感が収縮していくことになる。現に、2008年2月の17日間に渡る米中欧州を訪れた初外遊には、日本は含まれず、豪州国内で批判が上がったほどだ。

 次回はこの日豪関係の「冬の時代」を打破した第2次安倍政権と日豪関係、特に上に示したFTA締結の意義について論じたい。

寺田貴

同志社大学教授。1999年オーストラリア国⽴大学院にて博士号取得。シンガポール国⽴大学人文社会科学部助教授、早稲田大学アジア研究機構准教授を経て、2008年より現職。この間、英ウォーリック大学客員教授、ウィルソンセンター研究員(ワシントンDC)などを歴任。2005 年にはジョン・クロフォード賞を受賞。