バイデン政権「米国は世界の警察官ではない」
2021年8月の、米軍のアフガニスタンからの撤退は、アメリカの国際的影響力減退を象徴するものであった。「アフガニスタン軍が戦おうとしない戦争に米国民を巻き込むわけにはいかない」というバイデン大統領の言葉は、国家の存立をアメリカからのコミットメントに頼っている国の政府を震撼させた。バイデン政権の姿勢は、2015年にオバマ大統領がシリア内戦に関するテレビ演説で「米国は世界の警察官ではないという考えに同意する」と伝えたこととオーバーラップする。
2022年2月11日、アメリカ大統領府は新たな「インド太平洋戦略」を公表した。従来の「インド太平洋戦略」はトランプ政権が公表したものであった。アメリカ大統領は、ゴールドウォーター・ニコルス法に基づき、毎年外交・安全保障戦略の全体像を示すことが義務付けられており、2001年のブッシュ大統領以降、4年の任期中に1回、「国家安全保障戦略」を議会に提出している。
アメリカの戦略文書は、「国家安全保障戦略(National Security Strategy : NSS)」を基礎として、「国家防衛戦略(National Defense Strategy : NDS)」を策定、NDSを基に、「国家軍事戦略(National Military Strategy : NMS)」、「核体制の見直し(Nuclear Posture Review : NPR)」及び「ミサイル防衛見直し(Missile Defense Review : MDR)」の三つの戦略が策定される。トランプ政権の「インド太平洋戦略」は、一連の戦略文書公表後に明らかにされている。
バイデン政権は、2021年3月に「国家安全保障戦略の暫定的な指針」を公表したが、政権発足後1年たっても正式なNSS等の文書を議会に提出していない。そのような中で、「インド太平洋戦略」を公表した背景には、アフガン撤退以降、アメリカのリーダーシップに多くの国が疑問を抱いていることを考慮し、最も激しい米中競争が行われているインド太平洋におけるアメリカの基本的考え方を、早急に示す必要があると考えているためであろう。
「アメリカのリーダーシップ」はどうなる?
今回の「インド太平洋戦略」における基本的考え方は、当然、今後議会に提出されるであろうNSS等と同じコンセプトに立脚していると予想される。トランプ政権の同戦略との違いを分析した上で、今後のアメリカのリーダーシップについて考察する。脅威認識に関し、前戦略は中国を現状変更勢力、ロシアを復活した「悪意のある関係者」と位置付けている。今回の戦略では、中国を国際法や国際的秩序への挑戦者とほぼ同様の認識を示しつつも、ロシアへの言及はない。これは、インド太平洋における主要プレーヤーとしてロシアを見ていないという可能性もあるが、ウクライナ情勢に鑑み、あえて触れなかったとも考えられる。
注目されるのは、「我々の目標は、中国を変えることではない」と明言し、「アメリカ、同盟国、パート―ナー等に対し、有利な環境を作為することである」としている点である。そして、「中国との競争をマネージする」、としている。中国を国際社会に取り込むことにより、中国が変化することを期待する、オバマ政権時の姿勢は完全に否定されている。一方で、環境問題等のグローバルな問題に関しては、協力することがうたわれている。米中間の対立が解消する可能性を低く見積もり、対立しつつも、その対立がエスカレートすることを防止し、しかも協力できるところでは協力を模索するという考え方を明確にしたものである。
同盟国や友好国との協力を重視する姿勢は、両戦略共通である。しかしながら、トランプ政権時の協力は、それぞれに応分の負担を要請しているのに対し、バイデン政権の戦略は、国際協調をより重視している。また協力の範囲に、今までなかった先端技術や宇宙・サイバーといった新たなドメインが強調されている。安全保障の分野では、抑止力強化の一環として、軍の相互運用性(インターオペラビリティ)の向上に加え、軍事優勢確保のために、防衛装備品のサプライチェーンの統合や鍵となる技術の共同開発等が挙げられている。
インドに対しては、「志」を同じくする国として、地域におけるリーダーシップ向上を支援するとしている。インドは、オーストラリア、日本、韓国、フィリピン及びタイという同盟国に次ぐパートナー国の筆頭に位置付けており、QUADをつうじた緊密な関係を強調しつつも、非同盟を標榜するインドに一定の配慮を示している。
バイデン政権のインド太平洋戦略は、「自由で開かれ(Free and Open)」、「相互接続され(Connected)」、「繁栄し(Prosperous)」、「安全な(Secure)」、そして「強靭性のある(Resilient)」インド太平洋地域を維持するとすることを目標としている。トランプ政権の「準備(Preparedness」、「パートナーシップ(Partnership)」及び「連結性の向上(Promoting a Networked Region)」と比較すると、同盟国やパートナー国との協力を強化するという方針は、同様であり、台湾をパートナーとする点も同じである。
しかしながら、「繁栄」、「安全」そして「強靭性」はアメリカ一国で成し遂げられるものではない。「協力(Collaboration)」という言葉を強調し、全体の利益を追求する考え方が明確に示されていると言えよう。その観点から、アフガニスタン撤退に伴うアメリカのリーダーシップへの信頼回復を図ろうとしていると言える。
「宇宙」や「サイバー空間」にまで広がる
アメリカが、インド太平洋における安定的戦略環境の維持にリーダーシップを発揮することは、日本の国益にかない歓迎すべきである。しかしながら、注意しなければならない点もある。それは、同盟国等との協力の範囲が、サプライチェーン、デジタル経済、先端技術、更には宇宙やサイバー空間という新たなドメインにまで広がっていることである。これら協力分野は、今後ルール作りを進めなければならない分野でもある。アメリカが主体的に新たな分野におけるルール作りを行っていった場合、中ロを中心とした国々と対立を生み、デカップリングが進む可能性が有る。
日本を始め、アメリカの同盟国又はパートナー国とされる国々も、中国との経済的関係を完全に断ち切ることは難しい。特に、今後拡大が予想されるデジタル経済分野において米中のデカップリングが進む場合、必ずしもアメリカに同調できるとは限らない。また、先端技術の観点からは、日本にとって、むしろアメリカが最大の競争相手となることも想像できる。1980年代の日米半導体交渉がその好例であろう。
中国の高圧的な海洋進出や債務の罠を見る限り、アメリカのインド太平洋戦略と軌を一にすべきではあるが、日米が対立する局面も必ず生起する。最終的には、日本の国益にかなうかどうかというフィルターを持って判断すべき時期が来ることを覚悟すべきである。
サンタフェ総研上席研究員 末次 富美雄
防衛大学校卒業後、海上自衛官として勤務。護衛艦乗り組み、護衛艦艦長、シンガポール防衛駐在官、護衛隊司令を歴任、海上自衛隊主要情報部隊勤務を経て、2011年、海上自衛隊情報業務群(現艦隊情報群)司令で退官。退官後情報システムのソフトウェア開発を業務とする会社において技術アドバイザーとして勤務。2021年から現職。
写真:AP/アフロ