6月の欧州議会選を経て、EUは次の5年間の戦略に動き出そうとしている。テーマは「競争力強化」だ。これまでEUは「欧州グリーンディール」と呼ばれる環境政策をテコにした成長戦略を描いていた。だが、パンデミックによる供給網の混乱やエネルギー安全保障問題の顕在化によって投資が伸び悩み、米国と中国による「グリーン覇権争い」の後塵を拝するようになった。欧州が得意分野であるグリーン戦略が見直しを迫られている背景と競争力強化の具体的施策について、欧州経済を専門とするニッセイ基礎研究所常務理事の伊藤さゆり氏に解説いただいた。(構成:鈴木英介=実業之日本フォーラム副編集長)
EUは、これからの5年間、競争力と安全保障への対応を強化したいという認識を持っています。なぜ5年かというと、EUの立法機関である欧州議会の選挙が5年に1度のサイクルで行われるからです。今年6月に欧州議会選があったので、2024〜2029年のEUの政策をスタートするに当たって新たな戦略を打ち出したということです。
これまでEUの政策の目玉となっていたのは、「欧州グリーンディール」と呼ばれる気候中立と循環型経済を目指す成長戦略です。欧州気候法で「2030年に1990年比55%以上の温室効果ガス削減」という高い目標を掲げたため、それに適合するよう各種の法的な枠組みを構築する作業を行ったのが直近5年間でした。
EUは、環境や人権といった普遍的なテーマに関して、世界に先駆けて規範をつくってグローバルスタンダードとし、そのルールにグローバル企業を従わせたり、他国の法律の規範となったりすることで国際的な影響力を行使していると言われます。いわゆる「ブリュッセル効果」と呼ばれるものです。EUが環境対策関連の法律を先行して整備したことで、域内企業は規制適合が早く進みます。同じ目標を掲げる域外企業に先行して競争力をつけ、投資を呼び込み、持続可能な経済成長を図るという大きな野心がEUにあったはずです。
得意分野で米中の後塵を拝す
しかし実際は、期待ほどにグリーン関連投資が伸びていません。グリーンディールはこれから関連法令を本格的に適用する段階なので成否の判断は早過ぎますが、イノベーションを社会実装したり、エネルギーをグリーンに転換したりするための民間投資の動きが鈍いのです。
背景には複数の要因があります。新型コロナウイルスの感染拡大でサプライチェーンが混乱し、ウクライナ危機でエネルギー調達環境が急変しました。インフレが高進した結果、建設費や原材料費、人件費も上がり、グリーン関連の投資判断の前提条件も大きく変わりました。特に化学・鉄鋼セクターなどエネルギー集約型産業が脱炭素の流れに適合するためには莫大な資金が必要となりますが、エネルギー転換の前提条件が急変したことで、競争力が打撃を受け、投資余力がそがれているのです。
さらにこの間、産業政策における米中の競争が激化しました。米国は、グリーンテックに対する大規模補助金支援を盛り込んだIRA(インフレ削減法)を策定しました。IRAは排他的な優遇措置の色が強く、欧州がリードしていたグリーン分野でも、少なくともニアショアリング(生産拠点を米国に近い場所に移すこと)、可能ならオンショアリング(国外にあった生産拠点をすべて米国内に移すこと)を促すような大胆な政策です。
中国も大規模な補助金政策を背景にグリーンテックに注力し、欧州における中国のシェアも高まっています。太陽光パネルのシェアは圧倒的だし、バッテリーも含めたEV(電気自動車)のサプライチェーン構築で中国は欧州より5年先行し、それが今の価格競争力の差につながっているという分析もあります。つまり、コストがかさみ、投資環境が不透明になった上に、米中競争が激化して、グリーンテックの分野が覇権争いの主戦場になったわけです。
「自国ファースト」になれないEU
もう一つEUが難しいのは、統合体であるが故に「自国ファースト」になれないことです。EUでは、加盟国に対する補助金は原則禁止です。もっとも、コロナ対策やエネルギー危機対策では例外を認めました。IRAに対抗する形で出した「グリーンディール産業計画」でも、例外として、一定の要件を満たすプロジェクト、特にグリーンテック領域で補助金の活用を認めています。
ただ、なぜ原則禁止かというと、単一市場の自由な競争を妨げたり、歪めたりするからです。EUとしての共通財源には限りがあります。域内各国が補助金で競い合うことになれば、結局、大国であるドイツとフランスの補助金が多くなり、その他の加盟国からすると不満が残ります。
欧州が対米戦略を強く意識するようになった背景には、エネルギー調達環境の変化があります。欧州は脱炭素に至るまでの移行期のエネルギーとして、ロシアなどから供給される安価なガスを使うつもりでした。しかし、ウクライナ戦争に伴うロシアとの対立によって、ドイツなどではロシアからのガス供給が停止し、他国からより高いコストでガスを輸入せざるを得なくなりました。
米国は、エネルギーのコストが低く、イノベーションの社会実装というプロセスを支える金融資本市場の機能が非常に高く、リスクマネーも豊富です。中国はトップダウン式にイノベーションの社会実装のためのビジネス環境を整備する。こうした強みを持つ米中のスピード感に欧州はかないません。
欧州は、技術を持ち、レベルの高い規制体系をいち早く構築していながら、国際競争に負けつつあるのではないかという危機意識を持ちました。とりわけグリーン分野は欧州の看板政策なのに、目標を実現しようとすればするほど、中国産の原材料や製品に依存せざるを得ない皮肉な状況になろうとしている。加えて、もともと「マーケット」「金融」「エネルギー」のパワーを持つ米国が、さらに「産業政策」という非常に強力な武器を持つことによって、欧州企業が強く引き付けられるようになりました。
また欧州の規制体系は、少なくとも建前上は国際ルールを尊重しているのに対し、米国のそれはかなり「あからさま」です。例えば欧州は、中国EVの「デフレ輸出」に対する追加関税も、WTO(世界貿易機関)のルールに整合的なアンチダンピング関税という形式をとっています。米国も中国から輸入するEVに100%の追加関税をかけましたが、WTOが定める紛争解決のルールにのっとらない米通商法301条に基づく手続きを選びました。
共に自由で開かれた国際秩序をつくってきた米国が、規制領域で経済安全保障における例外を拡張し、WTOルールを尊重しない動きが目立つのは欧州の懸念材料です。ただ、全面的に争いたくはない。欧州は対ロシアの問題があるので、米国との連携は重要です。同時に中国とも決定的な対立を避けたいのです。
グリーンディールの方向性自体が誤っていたわけではありません。ただ、ECB(欧州中央銀行)前総裁のマリオ・ドラギ氏が作成した競争力強化のための報告書は、「目標達成を助ける政策支援を欠いていたところに決定的な問題があった」と指摘しています。
例えば2035年に内燃機関を廃止する「EVシフト」を実行するには、モーターやバッテリーなどEVに対応したサプライチェーンに組み換えることや、充電ステーションなどのインフラ整備も必要になります。ですが、EUレベルでの強力な推進策がなく、域内各国の対応に任されていました。この点、中国はずっとEVシフトが早く、より安くつくれるようになった。純粋な中国資本のEVだけでなく、米テスラや欧州自動車メーカーも中国を輸出拠点化していて、生産地域としても中国の方がより価格競争力のある製品をつくれてしまうということです。
「資本市場同盟」強化へ議論再燃
こうした中で、EUが掲げた競争力向上の施策に「資本市場同盟」があります。これまでEUは、金融セクターにおける域内ルール統合の取り組みとして「資本市場同盟」と「銀行同盟」を進めてきました。
このうち、取り組みが先行したのが「銀行同盟」で、これは銀行監督や破綻処理に関する共通化の取り組みです。背景には、2008年の世界金融危機や、2009年のギリシャ危機に端を発する欧州債務危機において、域内各国の銀行監督の手法にばらつきがあり、連携も不十分だったために、財政不安と金融システム不安の連鎖に歯止めをかけることができなかったことがあります。銀行同盟によってECBが域内の大手行を直接監督したり、統一機関(単一破綻処理メカニズム=SRM)が一元的に銀行の破綻処理を行うことで他の域内各国に危機が波及することを防いだりする仕組みができました。
一方、「資本市場同盟」は、域内の市場を分断している規制や手続き、市場慣行を共通化しようとする取り組みで、2010年代半ばに前の欧州委員会委員長が掲げたものの、これまでほぼ手つかずでした。金融システム危機から改革の必要に迫られた銀行同盟に比べ、資本市場同盟は差し迫った課題ではなく、ルール統一や一元的監督機関の権限強化などのインセンティブが小さかったからです。
しかし、競争力強化のためには膨大な資金が必要です。間接金融の主体である銀行は、安全性が求められる預金を基に貸し出しを行うため、リスクマネーを負うには限界があります。やはり民間投資が必要ですが、欧州には膨大な貯蓄があるのに、資本市場の厚みが乏しいために、貯蓄が米国に流れてしまう。また、欧州最大の国際金融センターである英国のEU離脱も域内市場の魅力を減じることになりました。こうした状況に歯止めをかけるため資本市場強化が必要だということで、議論が息を吹き返したわけです。
欧州の資本市場の問題は市場が分断していることです。例えば証券取引所。欧州の証券取引所はユーロネクストなどいくつかに分かれ、市場ごとに慣行などが違う。上場するマーケットを選ぶ場合でも、欧州が分断していては魅力的ではありません。そのため欧州のスタートアップも、地元ではなく米国での上場を目指すことになるわけです。
EUの証券市場の監督当局としてはパリに本部を置くESMA(欧州証券監督庁)がありますが、フランスやドイツなどにも独自の証券監督当局が存在します。ESMAの権限はECBが単一の銀行監督当局として持っている権限ほど強力なものではないのです。こうした点から、欧州が資本市場を活性化させるためには、調和した法規制や手続き、それを監督するより強力な機関が必要です。
さらに「欧州貯蓄投資同盟」というアイデアも提案されています。資本市場同盟だけだと規制の調和にとどまってしまうところ、一歩進んで、欧州の貯蓄を域内の投資のために使わせ、「域内のお金を域内で循環させる」というコンセプトです。魅力的な投資商品をつくるといったことが考えられますが、具体策が出るのはこれからです。
資本市場同盟は米国を意識した取り組みですが、これが前進すれば、米国市場の魅力に追いつくというものではありません。欧州として統一したマーケットにし、多少なりとも魅力のあるものにしようというもので、即効性がある施策ではありません。それでも競争力強化のための膨大な財源を確保するためには多くの取り組みが必要です。EUは認識した課題をこれからの5年間でどう実行できるかが問われます。
伊藤 さゆり:ニッセイ基礎研究所 経済研究部 常務理事
早稲田大学政治経済学部卒業後、日本興業銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)を経て、ニッセイ基礎研究所入社、2019年から現職。早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了。早稲田大学大学院商学学術院非常勤講師、日本EU学会理事、21世紀政策研究所研究委員、経済産業省産業構造審議会経済産業政策新機軸部会委員など兼務。専門は欧州経済。最近の著作に『インド太平洋地経学と米中覇権競争』(彩流社、共著)、『EUと新しい国際秩序』(日本評論社、2021年、共著)、『沈まぬユーロ—多極化時代における20年目の挑戦』(文眞堂、2021年、共著)など。
地経学の視点
欧州は、EVシフトの推進が結果的に中国への依存度を高め、脱炭素までのつなぎと見込んでいたロシア産ガスはウクライナ戦争のあおりで脱却の必要に迫られている。のみならず、欧州は同じ西側である米国とも激しい競争を演じている。
EUは、域内人口約4億5000万人の市場のパワーに、環境や人権といった普遍的価値をテコとして世界に影響を及ぼそうともくろむ。しかし、域内各国の経済的格差もあり、真の意味でEUが一つの国のようにふるまうのは難しい。理想と現実のはざまで苦しむEUを、米国は保護主義的なIRAや追加関税で劣勢に追い込んでいるようにも見える。
今回EUが掲げた「競争力強化」というスローガンからは、有志国であろうとなかろうとライバルであることに変わりはなく、このままでは欧州は世界から取り残されるという強い危機感がみてとれる。レアルポリティークの時代において、日本も国際競争を勝ち抜くための中長期的なビジョンが求められる。(編集部)