ロシアが2016年の米国大統領選挙で仕掛けたフェイクニュースや誤情報の拡散による認知戦が選挙結果に大きな影響を及ぼし、米国の脅威認識が高まった。これを受け、国家安全保障上の「パワー」としての「マーケティング力」だ。米大統領選での認知戦の実態やTikTok法を巡る米中攻防を解説し、デュアル・ユース(軍民両用技術)の観点からマーケティングの必要性を説く(なお、本稿はEY JapanおよびEYメンバーファームとしての公式見解ではない)。
執拗な米大統領選への介入
国際政治や国家安全保障を語る時、「パワー」の概念を避けて通ることはできない。国際政治学者のジョセフ・ナイ氏は、パワーを「自らの望む結果を得るために他者に影響を与える能力」と定義した。国際政治はパワーを用いて他国の考えや行動を自国の国益に沿うよう変容させることであり、国家安全保障は他国のパワーの行使から自国の国益を守ることである。古くは軍事力や人口、領土や経済力などがパワーを構成する要素とされていたが、現代では文化やイデオロギーなど、いわゆるソフトパワーも重要な構成要素と考えられている。そして今、国家安全保障の新しいパワーとして真剣に議論しなければならないのがマーケティング力である。
なぜマーケティング力が新しいパワーになるのかを説明するには、まず「認知戦」について解説する必要があるだろう。認知戦とは、人々の物事に対する認識や捉え方などに影響を及ぼす戦いを指し、近年注目を集めている。情報戦や心理戦とも近い概念ではあるが、SNSなどのICT(通信技術を活用したコミュニケーション)サービスが社会インフラとなり、人々の認知が明確に国家安全保障上の重要領域であることが認識されるようになったことで、認知戦という言葉が使われるようになった。
認知戦をイメージしやすくするため、ロシアが2016年の米国大統領選挙に介入した事例を取り上げる。米国家情報長官室が2017年に公表した報告書では、ロシアは自国に不利益な政策を取ろうとする民主党のヒラリー・クリントン候補を大統領にさせないため、対抗馬である共和党のドナルド・トランプ候補が有利になるよう選挙への介入を実施したと結論付けている。ロシア研究家のアンジェラ・ステント氏によれば、プーチン大統領はクリントン氏が大統領になれば、ロシアに厳しい政策を遂行すると考え、彼女の大統領としての適性に疑問を呈するような情報を米国内で拡散させるための作戦を実施した。
具体的には、ロシアが「bot」と呼ばれる自動化されたアカウントや「トロール」と称する荒らしアカウントを通じて、クリントン氏にとって不利な情報や彼女の健康状態などの機微情報に関するフェイクニュースをFacebookやTwitter(現X)といったSNS上に拡散した。選挙戦の終盤には、Twitterでロシアに関連する3万超のアカウントから、米大統領選に関する投稿が140万件以上行われたことが判明している。
ワシントン・ポストの報道によると、2012年の米大統領選で民主党のバラク・オバマ氏に投票した人々のうち約25%が、2016年の米大統領選で拡散された3つのフェイクニュース(「クリントンの健康状態は極めて悪い」「ローマ教皇はトランプを支持している」「クリントンはISIS(イスラム国)に対する武器供与を承認した」)から1つ以上信じ、そのうちの過半数がクリントン氏に投票しなかった。もちろん、トランプ候補の勝利はさまざまな要因の複合的な結果ではあるものの、ロシアの認知戦がその一役を担ったことは事実である。
フェイク動画で信用失墜
では、ロシアはどのようにオバマ氏支持の有権者に荒唐無稽なフェイクニュースを信じ込ませ、クリントン氏への投票行動を回避させることに成功したのか。ここで、認知戦の手段としてのマーケティングが登場する。カギを握るのは、ターゲティング広告だ。2016年大統領選と言えば、ケンブリッジ・アナリティカ(CA社)という名前を思い出す読者もいるだろう。政治コンサルティング会社であるCA社は、約7000万人に上る米国人のユーザー情報をFacebookから不正に入手し、トランプ陣営の選挙キャンペーンに使用していたと指摘されている [1]。
具体的には、Facebookのユーザープロフィル、アプリ上での交友関係や投稿への反応などを収集・分析し、独自のユーザープロフィルを作成。それぞれのプロフィルでクリントン氏への支持を低下させたり、トランプ氏への支持を促したりする上で最も効果的と思われる記事や画像を作成して拡散したのである。さらに、米大統領選での疑惑を通じてブレグジット(英国のEU離脱)への影響を疑った英議会が調査を実施した結果、CA社が保有するデータにロシアがアクセスしていたことが確認されている。
2016年米大統領選での選挙介入では、SNS上のユーザー情報とユーザー行動を収集・分析し、どのような趣向を持っているかを推測。各ユーザーが興味を持ちやすいコンテンツをピンポイントに伝達することで、特定の候補者への支持・不支持を拡大する形で行われた。これは、Eコマースサイトが閲覧履歴に基づき商品を推奨したり、動画配信サイトが視聴履歴に基づき関連動画を勧めたりするのと全く同じメカニズムだ。
次の例を想像してみてほしい。A候補、B候補が出馬しているZ国の選挙で、敵対国Y国はB候補を勝たせたいとしよう。A候補とB候補が選挙戦に使用しているSNSのデータを用いてユーザーを分析したところ、A候補関連投稿の閲覧回数と、動物保護に関する投稿への「いいね」の数に正の相関があることが分かった。そこでY国は、A候補が犬を虐待しているように見える動画を作成し、動物保護に関心のあるユーザーに対してピンポイントに表示させた。
動画は完全なフェイクではなく、A候補が飼い犬とじゃれ合っている動画や、飼い犬が大きな音に驚いている動画を組み合わせて作成されたものだった。これを閲覧したあるユーザーが「A候補が犬を虐待している動画が流出した!犬が好きだと公言していたのに、許せない」とキャプションを付けて動画を投稿。当該ユーザーのフォロワーには捨て犬の保護活動に関心のあるユーザーが多く、動画は怒りと共に瞬く間に拡散された。A候補陣営は「動画は切り抜きである」と虐待を否定したが、拡散は止まらず、A候補の動物に優しいというイメージは失墜してしまった。
この例では、都合よく切り抜いた動画を用いる点で、一般の企業広告とは異なるかもしれない。しかし、ターゲットの特定に至るまでの分析や、ターゲット広告の作成プロセスなどは一般企業のマーケティングと大差ないことが分かるだろう。ユーザー情報を収集・分析するほか、ターゲットユーザーごとに最も「刺さる」広告を提供し、製品やサービスの購買につなげることは、よくあるターゲティング広告を用いたマーケティングの一例である。
ルールに基づき情報を収集し、ユーザーの同意の範囲内でマーケティングに使用することは一般的な企業の事業活動であるが、ある国が敵対国の選挙に介入するために情報を用いて広告を打てば、それは認知戦になる。これが、マーケティング力が国家安全保障上の新しいパワーになるゆえんだ。
「TikTok」巡り米中で攻防
米国では既に、マーケティング力の自国行使に対して強い脅威認識がある。その表れが、2024年4月に成立したPROTECTING AMERICANS FROM FOREIGN ADVERSARY CONTROLLED APPLICATIONS ACT(外国敵対勢力が支配するアプリから米国人を保護する法)、通称「TikTok法」である。対象アプリとしてTikTokと親会社であるByteDanceが条文に明記され、TikTokを強く意識した法律となっている。これまでも、米国では度々TikTokを規制するための法案が議論されてきたが、言論の自由の制限になることを懸念した反対派の動きもあり、なかなか実現できなかった。
今回の法律は、明確にTikTokを名指ししている点で過去に提出された法案と比べてもラディカルに思える内容だったが、民主党が多数派を占める下院および共和党が多数派を占める上院共に賛成多数で通過し、ジョー・バイデン大統領の署名を経て成立した。TikTokを含む外国敵対勢力が支配するアプリは、売却などにより外国敵対勢力の支配から外れない限り、本法成立から270日後に米国内でのサービス提供が禁止される。
では、なぜ米国はここまでTikTokを脅威として認識するのか。先ほどのA候補とB候補の例を思い出してほしい。Y国が仕掛ける最初の認知戦のステップは「A候補とB候補が選挙戦に使用しているSNSのデータを用いてユーザーの分析を実施」することである。もし、ここでいうZ国が米国、使われているSNSがFacebookであった場合、Meta社は敵対国Yにユーザーデータを提供するだろうか。2016年大統領選のケースでは、Facebookのデータが「不正」にロシアに渡ったことでロシアによる介入を許してしまった。その後、Meta社(当時はFacebook社)のマーク・ザッカーバーグCEOは米議会公聴会で謝罪し、データの不正移転が発生しないようデータ保護強化や選挙広告の透明性向上を約束した。
SNSがTikTok、敵対国が中国の場合はどうか。TikTokは米国で収集したデータの中国への流出を否定しているものの、中国には在外中国人を含む全ての中国人及び組織に対して国の情報活動に協力することを義務付ける「国家情報法」が存在する。中国政府が中国企業であるByteDanceに、子会社のTikTokが保有する情報を提供するよう指示した場合、ByteDanceはそれに従う必要がある。
マーケティング力の重要な源泉の一つは、データである。TikTokが保有するデータは、ユーザーが何を好み何が嫌いなのか、どのような属性の人々がどのような主張に共感しやすいのか、誰のどんな行動が誰の心を動かし行動につなげるのかを、教えてくれる。TikTokはTikTok法案が議会提出された際に、特定のインフルエンサーやクリエイターに対し、旅費を負担するので米国議会前で法案に反対するデモを行うよう依頼したり、社会的マイノリティーのグループに抗議を呼びかけたりしたとの報道もある [2]。
TikTok法案を阻止するには、言論の自由、特にSNS登場前には声を上げることが難しかった社会的マイノリティーによる言論の自由への懸念を主張することが、一番効果があると理解してのことだろう。実際、メディアには「私たちが築いてきたコミュニティーを取り上げないで」「クリエイターがワシントンD.C.でTikTok法案に抗議」との見出しが躍り、TikTokの禁止により社会的弱者が連帯して声を上げるためのプラットフォームが奪われる可能性が指摘された。
TikTokのキャンペーンは不調に終わった。TikTokによるインフルエンサー支援が明るみになったことで、米議会がTikTokに対する脅威認識を強めたからだ。TikTok法に基づくTikTokのサービス提供が禁止されるのは、法成立の約9カ月後であり、11月の米大統領選には間に合わない。TikTokとByteDanceは、TikTok法が言論の自由を保障する米国憲法修正第1条に反しているとして米政府を相手取った訴訟を提起しており、実際にTikTokが禁止されるまでにはさらに多くの時間がかかる可能性がある。それでも、米国はマーケティング力が認知戦に悪用されることの脅威を認識し、既に国家安全保障を強化するための施策に取り組んでいる。
日本に欠ける軍民両用認識
米国は、2016年大統領選で認知戦の脅威が現実のものとなったことを痛感。次の脅威がSNS上で収集された米国人データを用いたマーケティングによってもたらされると予期し、規制強化に動いている。また、認知戦やフェイクニュースに関する議論でも、国際政治学者や安全保障の専門家に加えて、SNSプラットフォーム関係者や広告・マーケティングの専門家の参加が一般的になりつつある。2024年春にテキサス大学で開催された認知領域に関するカンファレンスでは、安全保障や軍事関係者のほか、革新的なマーケティング戦略で知られるNIKEのアートディレクターがスピーカーとして登壇し、マーケティングと国家安全保障との関係性が強く意識されている。
一方、日本ではマーケティング力が認知戦で国家のパワーとなることがまだまだ理解されていない。米国のTikTok法についても、安全保障問題に関わることが認識されず、米国産アプリ保護のための規制という誤った解説がなされているケースもある。しかし、日本もマーケティングを国家安全保障と結び付けて考えることは避けて通れない。福島第一原発から発生する処理水を巡るフェイクニュースの拡散と、その影響による日本産海産物への不買運動を思い出してほしい。日本も既に、認知戦のターゲットとなっているのだ。
マーケティングはもはや、純粋な民生用のツールではなく、軍事転用可能なデュアル・ユースのツールになりつつある。デュアル・ユースは、古くは原子力技術やロケット技術、近年ではGPSやドローンが代表例として挙げられる。まさに諸刃の剣であり、誰が何の目的にどう使うかによって、社会を発展させることもできれば、国家安全保障上の脅威を与えることもできる。そうした点を踏まえ、軍事・防衛技術としてのマーケティングという概念について、真剣に考えるべき時が来た。例えば、ロケット技術は攻撃用ミサイルだけでなく、迎撃用にも使われる。すなわち、認知戦の時代では、マーケティング力を活用して自分たちを守ることも必要となる。
2022年2月にウクライナに侵攻したロシアは、認知戦で失敗したと評価されている [3]。その理由の一つが、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領の巧みなSNS活用だ。彼を追跡取材したサイモン・シャスター氏によれば、ゼレンスキー氏は戦場の指揮を軍部に任せる一方、自らはウクライナをいかに世界のニュースヘッドラインに載せ続け、世界中からの支援を獲得し、ウクライナ国民の継戦意思を鼓舞するかに集中していたという。これはまさに、マーケティング力が防衛に活用された代表例と言えるだろう。
もちろん、ゼレンスキー氏の手法は一つの例に過ぎない。マーケティングにたった一つの正解がないのと同様、国家安全保障上のパワーとしてのマーケティングの活用にも正解はない。認知戦の脅威が高まる中、まずはマーケティングのデュアル・ユース性を認識し、さまざまなリスクから認知領域を守るためにマーケティングをどのように活用できるかを考えることが肝要だ。
[1] 前嶋 和弘、山脇 岳志、津山 恵子(編)(2019). 『現代アメリカ政治とメディア』東洋経済新報社
[2] POLITICO. “TikTok fights for its life in Washington.” March 13, 2024. https://www.politico.com/news/2024/03/12/tiktok-washington-ban-00146596, THE HILL. “Racial justice, free speech groups join fight against potential TikTok ban.” June 27, 2024.
[3] Anders Åslund. “Why Vladimir Putin is losing the information war to Ukraine.” Atlantic Council. March 6, 2022. https://www.atlanticcouncil.org/blogs/ukrainealert/why-vladimir-putin-is-losing-the-information-war-to-ukraine/
写真:Alamy/アフロ
地経学の視点
7月29日、実業家でX(旧Twitter)のオーナーでもあるイーロン・マスク氏が民主党のカマラ・ハリス副大統領のディープフェイク動画をXで共有したことが批判の的となっている。Xのポリシー違反に当たり、1億9200万人のフォロワー数を持つマスク氏の影響力が極めて大きいからだ。
偽動画ではハリス氏の声に似せた音声がジョー・バイデン大統領を「老いぼれている」と酷評し、自身については女性で有色人種であることから「究極の多様性採用枠」と語っている。米大統領選では、こうしたAIを利用したフェイクニュースが海外からだけでなく、国内を起点に拡散するリスクも高まっている。
筆者はこうした国内を分断するような巧みな情報操作による認知戦とその武器となるマーケティング力に着眼し、安全保障問題に位置付ける必要性を強調する。先行する米国でもデュアル・ユースとしてマーケティングを活用する動きは緒に就いたばかり。遅れをとる日本も認知戦を安保上の脅威として認識を高め、米国を見習い備えていくべきだろう。(編集部)