ゲスト
野口悠紀雄(一橋大学名誉教授)1940年、東京に生まれる。 1963年、東京大学工学部卒業。 1964年、大蔵省入省。 1972年、エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。 一橋大学教授、東京大学教授(先端経済工学研究センター長)、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授などを経て、一橋大学名誉教授。専門は日本経済論。『中国が世界を攪乱する』(東洋経済新報社 )、『書くことについて』(角川新書)、『リープフロッグ』逆転勝ちの経済学(文春新書)など著書多数。
聞き手
白井一成(株式会社実業之日本社社主、社会福祉法人善光会創設者、事業家・投資家)
白井:基軸通貨についてさらに議論を深めたいのですが、リーマンショックをきっかけにドルに懐疑的な見方を強めた中国は、 人民元の国際化を進めるようになりました。当時の周小川中国人民銀行行長による2009年3月23日の「国際通貨体制改革に関する考察」は、特定の国の通貨が準備通貨(基軸通貨) の役割を兼ねる現在のドルを中心とする国際通貨体制の限界を指摘した上で、主権国家の枠を超えた準備通貨の創出を提案したものです。遠藤誉先生との共著である『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』では、今後の米中デジタル覇権を展望しました。
野口:デジタル人民元が通貨覇権を狙ったものという議論があります。一時は私もそのよう に考えていましたが、中国共産党がデジタル人民元を発行しようとしている意図は、どうも そうではなさそうです。本当の目的は、世界的な覇権とか、基軸通貨ということではなく、情報を通じた国民の管理にあるのではないかと考えるようになりました。
アリペイが普及してマネーの取引データが把握できるようになり、そのビッグデータに AIを用いて信用スコアリングが可能になったことはすでにお話しました。これで、各人の評価が可能になったのですが、中国共産党はそのことの重要性に気がついたようです。アリペイを運営するアントグループという民間企業に任せておくわけにはいかない、それは国が行わなくてはいけないと方向転換したのだと思います。
この非常に大きな方向転換が、2020年11月にアントの上場中止につながったのでしょ う。極めて衝撃的な事件で、どうしてあのようなことが起こったのか、最初は理解できませ んでしたが、このように考えれば理解できます。アントの上場中止によってみずほの時価総 額と同じぐらいの金額が吹き飛んだのですが、それほどのことが必要だったのです。
今後、中国では、IT企業に対する規制や締め付けが強化されるでしょう。デジタル人民元の発行も、その一環ではないでしょうか。これまでアリペイやウィチャットペイが集めてきたマネーのデータを、デジタル人民元が集め、そのデータを国が使うということです。デジタル人民元の最大の目的は国民管理にあると思います。
白井:今年(2021年)4月10日、中国当局は、アントの親会社のアリババグループに対し独占禁止法違反で約182億元という過去最大の罰金を科すと発表しました。情報を通じた国民の管理というのは、確かにそういう側面があると感じさせられます。中国が国家の監視体制を強めるという理由でアントを犠牲にしたのは、国の体制を維持するためなのでしょうか。
野口:現時点ではそのように考えています。天安門事件と同じことが起こっているのかもし れません。
白井:ユーザーの立場からは、非公開のプライベート型ブロックチェーンの管理者が信用できるかどうか、仮に信用できなくともそれを超える利便性があるかどうか、という2点のどちらかが高いほど普及は加速していくと思います。
デジタル人民元が普及した後の世界では、金融のプライバシー監視に加え、個人も含めた デジタル通貨での金融制裁も可能となり、中国国内のみならず周辺国を含めた究極の監視 社会が実現するのかもしれません。一方、中国に対抗するアメリカや日本などの国々がデジ タル・レーニンのような完全監視社会を作り上げるには、いろいろな制約があると思います。
野口:中国は特殊なのです。幸いなことにアメリカや日本はそういうことを欲していませ ん。日本やアメリカの政府は、こうした手段で国民を管理しようと思っていないのです。直接データを握るのは政府ではなく中央銀行ですが、中央銀行がそんなデータを持たされても持て余すだけで、使い道がない。しかし中国においては、中央銀行と共産党、中国政府はほぼ同一です。だから、中央銀行が持ったデータは中国共産党が握ることになる。その意味でも、中国は非常に特殊な国家なのです。
民間企業を規制するのは、技術発展にとって明らかにマイナスです。中国は経済パフォーマンスを犠牲にするということです。民間企業を全部共産党傘下におさめれば経済パフォーマンスは低下しますが、そうした犠牲を覚悟するほど重要なことなのでしょう。共産党もそのことはよく認知しているにもかかわらず、このような方向転換をせざるを得なくなったというのは、非常に重要な変化だと思います。
白井:お話をお伺いしていて、中国の一帯一路投資を思い浮かべました。コロナショックが 拍車をかけている面もあるでしょうが、発展途上国が中国からの借入を返済できなくなる ケースも散見されるようです。本来、採算性の高い投資を積み上げて全体の経済効率を高め ることが経済的には正しい姿でしょうが、経済効率は二の次にしてよいのであれば、プロジ ェクトのみならず、それを包含する経済全体の持続可能性は低くならざるを得ません。国家 の監視体制を強めるために民間企業に犠牲を強いるのであれば、中国の長期的な成長やイ ノベーションは失われていくのではないでしょうか。逆に、中国に比べて日本やアメリカに は期待できるということでしょうか。
野口:中国のイノベーション能力は低下していく可能性が高いでしょう。共産党はそのことも承知していると思います。このことは、アメリカにとっては有利に働く可能性が高く、アメリカと中国の技術開発のポテンシャルが逆転する可能性があると思います。中国との比較で言えば、アメリカは自由な国であるということが最大の強みであり、それを今後、続けていけるかどうかが大変重要です。
(写真:Featurechina/アフロ)
(敬称略)