実業之日本フォーラム 実業之日本フォーラム
2024.10.18 外交・安全保障

日米の本格的対立、きっかけはワシントン体制を否定した一つの声明にあった
地政学・地経学から検証する、日米開戦への道(2)

山下 大輔

第1回(日露戦争は導火線だったのか――20世紀初頭、中国を巡りせめぎ合った日米参照)は、日露戦争後、満州権益を手に入れた日本と中国利権に関心を持っていた米国のせめぎ合いを見てきた。今回は、日本の中国進出をきっかけにワシントン体制が崩壊し、世界が離合集散する姿を、日米の動きを軸に地政学の視点から検証していく。
                                  (第3回は近日公開予定)

 第1回で見てきたように、ワシントン体制の下で日本政府が対米協調路線を歩む一方で、陸軍軍人の中には「次の世界大戦は避けられない」と考える将校たちがいた。

 1920年代、陸軍内で佐官級の中堅幕僚たちによる組織改革運動が密かに動き出す。核となったのは、永田鉄山(後に陸軍省軍事課長や同軍務局長を歴任)や小畑敏四郎(後に参謀本部作戦課長や同第3部長を歴任)が中心になり結成された「一夕会(いっせきかい)」だ。永田は第一次世界大戦後に欧州に駐在した経験を持つ。大戦を研究する中で、長州閥が幅を利かせる旧態依然とした陸軍組織の改革と次期大戦に備えた総力戦体制構築の必要性を説くようになっていく。

「一夕会」と満蒙問題解決

 戦前、新聞記者として陸軍上層部に人脈を築いていた高宮太平氏は一夕会について次のように解説する。「(一夕会員)は毎月一回偕行社[1]あたりに集つて、国策の議論から、部内の人事等について忌憚のない話をする。人口問題、資源問題、軍備改革問題等についてそれぞれ適任者を作つて研究させる」(高宮太平「軍国太平記」酣灯社、1951年)。一夕会のメンバーには、後に満州事変を首謀する石原莞爾や板垣征四郎、日米開戦直前に対米交渉を担った東条英機や武藤章も名を連ねた。一夕会は陸軍省補任課長(人事課長)にメンバーを送り込むことで、陸軍省や参謀本部、関東軍の枢要ポストを独占していった。

 人事改革と同時に、一夕会が熱心に研究したのが満蒙問題の解決だった。第一次世界大戦の教訓から、国家があらゆる資源を投入する総力戦に備える必要があったからだ。とりわけ戦車や航空機の出現により、鉄や石炭などの大量の鉱物資源が必要とされるようになった。これらの資源を求めて、一夕会は満蒙を日本の影響下に入れようと考えるようになる。大国間の戦争という地政学リスクに備え、安全保障の観点から必要物資を確保するため、大陸に目を向けたわけだ。

 時の政友会の田中義一内閣は、満州軍閥の張作霖を支援することで満蒙権益を確保することを方針としていた。ただ、必ずしも日本の意向に沿わない張に苛立ちを感じていた現地関東軍は独断で張作霖を爆殺(1928年、張作霖爆殺事件)。満蒙に親日的独立政権の樹立を画策したが、失敗した。ちなみに、事件の首謀者である河本大作は、一夕会メンバーだった。

 張の跡を継いだ息子の張学良は、日本の意思に反して蒋介石の国民党政府と合流する。満州一体に影響力を持つ張学良が国民党政府に合流したことで、蒋介石による北伐は完了。皮肉にも中国は統一した。日本にとって有益な人物を満州の盟主に立て、傀儡(かいらい)国家を築く構想が、一夕会を中心に密かに進められた。

名目は自衛権の発動、満州事変の勃発

 1931年9月、満州事変が勃発する。南満州鉄道の路線が中国軍により爆破されたことを理由に、関東軍[2]は中国軍を攻撃。満州の制圧に乗り出した。鉄道爆破が日本軍による謀略であったことはご承知の通りだ。中国軍による爆破に見せかけたのは、この戦闘が自衛の為だということを強調するためだった。

 対欧米協調路線の若槻礼次郎内閣(立憲民政党)は不拡大方針を決定するも、関東軍は無視。最終的に満州全土を制圧した。この時、事変を主導したのも一夕会メンバーで、いずれも関東軍参謀だった板垣と石原だった。1932年3月には、関東軍が主導して、清朝最後の皇帝溥儀を執政とする満州国を建国する(後に溥儀は満州国皇帝となる)。

 中国政府からの訴えを受け、国際連盟は事件を調査するリットン調査団を派遣。調査団は全10章から成る報告書を国連に提出した。調査団はこの報告書で、日中双方の聞き取りと、爆破後に鉄道が難なく通過した事実などを挙げ、日本の行動について次のように結論付けた。「同夜に於ける敍上日本軍の軍事行動は正当なる自衛手段と認むることを得ず」(「リットン報告書全文」朝日新聞社、1932年)。国連ではこの報告書を基に、日本軍の満鉄付属地への撤退勧告案が審議され、圧倒的賛成多数で採択された。この採択を受け、日本は国連を脱退する。

 日本政府が満州事変を通じて、自衛権の範囲内と主張し続けたのは、ワシントン体制、九カ国条約の枠内での行動であることを強調し、事変を正当化する意図があった。つまり、満蒙権益は確保しつつも、欧米との決定的対立は避けようとしたのだ。この間、米国は日本政府に対し、非難や自重要請を繰り返すも、後年のような経済制裁や中国支援の実施には至っていない。欧米列強の国々は、世界恐慌の混乱から立ち直る途上にあり、地政学的にも距離のある極東の紛争に注力できない事情もあった。

日中戦争の勃発も、自衛行動を強調

 1932年の5・15事件で時の犬養毅首相(政友会政権)が暗殺されたのを機に、大正時代後期から続いた2大政党政治の時代は終焉を迎えた。その後、海軍、外交官、陸軍出身者の内閣が続く。1937年6月、国民から大きな期待を受けて、近衛文麿が首相となった。この第一次近衛内閣時代に日米関係は新たな局面に入ることになる。

 1937年7月、北京・盧溝橋付近で日中間の軍事衝突が起こった。数日後には現地で停戦協定が結ばれたが、内地3個師団の現地派遣が閣議決定されたことなどから、北京周辺の情勢は悪化。両軍間での小競り合いが続く中、7月末、日中は全面戦争に突入することになる(日中戦争、当時の呼称は支那事変)。日本政府は8月15日、以下のような声明を出した。

 「事変発生以来屡々声明シタル如ク、帝国ハ隠忍ニ隠忍ヲ重ネ事件ノ不拡大ヲ方針トシ努メテ平和的且局地的ニ処理センコトヲ企図シ(中略)我カ支那駐屯軍ハ交通線ノ確保及我カ居留民保護ノ為真ニ已ムヲ得サル自衛行動ニ出テタルニ過キス」(外務省「日本外交年表竝主要文書(下)」1965年、外務省、原書房」)。つまり、満州事変の時と同様、この戦争もまた自衛の為と主張したのだ。

 8月に入ると、戦火は上海に飛び火した。激戦の末、上海付近の中国軍を破った日本軍は、国民政府の首都である南京へ進撃。12月には南京を陥落させるに至った。同時に、ドイツの仲介を得て、日中は和平に向けた交渉に入るが、翌1938年1月に決裂。近衛内閣は有名な「国民政府ヲ相手トセズ」の声明(第一次近衛声明)を出し、以後日中戦争は泥沼化した。

 この声明の中では次のような一文がある。「元ヨリ帝国カ支那ノ領土及主権並ニ在支列国ノ権益ヲ尊重スルノ方針ニハ毫モカハル所ナシ」(同)。事実上は九カ国条約やパリ不戦条約の理念は破られていたが、日本政府はあくまでもワシントン体制の枠組みからは逸脱していないというスタンスを貫いていたことが分かる。

東亜新秩序声明による、日米対立の本格化

 南京を追われた国民政府の蒋介石は首都を重慶に移す。後を追う日本軍は中国の奥地に引きずり込まれ、戦争は長期化。ちなみに、この戦争を「支那事変」と称した背景には、米国の中立法の影響がある。中立法では戦争状態にある国に対し軍事物資を輸出することが禁じられており、米国からの禁輸を恐れ、あえて「事変」と称したのだった。

 1938年11月、日本政府は「東亜新秩序声明」(第二次近衛声明)を表明する。内容は、日中戦争の戦争目的(東亜新秩序建設)を明確にし、蔣介石政府にこの構想に参加するよう呼びかけるものであった。

【図1】東亜新秩序声明のポイント

著者作成

 東亜新秩序声明の意味について、日本陸軍や戦前の政党政治について著作がある川田稔名古屋大名誉教授は「それまでは中国側が日本の権益を侵害し自衛の為だと主張してきた。そこからぱっと態度を変え、新しい秩序を東アジアに作るんだと声明を出した」と解説。その上で、「この声明の後米国は中国側への支援(援蒋)という実質的な行動に出るようになった」と指摘する。

 つまり、東亜新秩序の建設は、中国の主権尊重や領土保全を謳ったワシントン体制の枠組みを否定することになる。米国からすれば、日本は世界秩序を乱す存在であることを確信する声明になった。これ以降、日米関係は目に見えて悪化していく。

松岡洋右外相と四カ国連携構想

 1939年、日本軍による中国・天津の英国租界封鎖問題が生じ、この問題を重視した米国は、日本に対して日米通商航海条約の破棄を通告した。石油を始めとした軍事物資を米国に依存していた日本にとっては打撃となる。米英が支援する中国との戦争は長期化し、日本国内の物資不足は深刻化していった。

 この間、欧州ではアドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツが台頭。イタリアでもベニート・ムッソリーニが登場し、欧州はファシストの脅威にさらされた。日本は1936年、ドイツと日独防共協定を締結し、ソ連をけん制。1939年に入ると、イタリアを加え、防共協定を三国軍事同盟にする発展させる動きが活発化する。しかし、欧州でドイツと緊張関係にある英国、そして、その背後にいる米国への刺激を恐れた日本海軍が反対し、とん挫。こともあろうに、ドイツはソ連と不可侵条約を結び、9月にはドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。

 この時の三国同盟構想は、欧州での復権を狙うドイツと日中戦争を戦い続ける日本が、ロシア革命後、国内基盤を整えてきたソ連を東西からけん制する意図があった。つまり、ドイツの行動は日本への明らかな背信であった(しかもこの時、日本軍はソ連軍とノモンハンで交戦中だった)。この後、日本外交は日米開戦までの間、ドイツの動きに振り回され続けることになる。

 1940年7月、近衛が再び首相に返り咲いた。近衛は、政党や言論界、研究者を糾合し、暴走する陸軍に歯止めをかけようとする(新体制運動)。外相には元外交官で弁の立つ松岡洋右を据え、陸軍に対抗した。

 このころ、ドイツは欧州を席けんし、すでにオランダやフランスは降服。孤立した英国も次第に追い込まれていく。これらの国々を宗主国に持つ東南アジアは、がら空き状態になった。陸軍を中心に、この機にドイツと手を結び、南方に進出すべしとの声が高まった。特に陸軍は、ノモンハン事件の経験や第二次世界大戦の推移から、航空機や戦車の重要性を改めて痛感。中国では採掘されないゴムや錫、ボーキサイトといった資源を東南アジアに求めた。

 松岡もこうした流れに動かされていった。9月に入ると、ドイツから派遣された特使に再び三国同盟を提案される。ただ、前回と違い、今回は米国を念頭に置いた危険な軍事同盟論だった。英国を屈服させたいドイツとしては、太平洋方面で強力な海軍を持つ日本に米国をけん制させる狙いがあった。つまり、米国の欧州介入を防ぎたかったのだ。近衛や松岡は最終的にこれを受け入れ、9月27日、日独伊三国同盟が調印される。

 なぜ、近衛や松岡はこの危険な条約を推進したのだろうか。それは、三国同盟にソ連を加え、四カ国の連携にしようと構想していたからだ。「日本トシテハ独伊蘇ト結ブコトニヨリテ米国ヲ反省セシムル外ニナイ(中略)此勢力ノ均衡ノ基礎トシテ始メテ日米ノ了解モ可能トナルデアラウ」(「近衛日記」共同通信社「近衛日記」編集委員会、共同通信社開発局、1968年)。この時、米国の盟友英国も、ドイツ軍の猛攻に危機的な状況にあった。この状況下で、欧州・極東の4つの大国が手を結ぶことで、米国は南北アメリカ大陸に孤立することになり、地政学的にも危うさをはらむことになる。

 川田名誉教授は「国力で言えば三国だと米英が圧倒的に有利だが、四カ国であれば米英と拮抗することができた」と指摘する。実際、翌1941年4月には日ソ中立条約が結ばれ、日独ソはそれぞれ連携する形となった。南方進出を目論む日本としても米国の介入をけん制でき、同時に中国問題で米側から譲歩を引き出す狙いもあった。1930年代から1940年代にかけて世界が地政学的に離合集散する姿が浮かび上がってきた。

 三国同盟が結ばれた1940年9月、陸軍は米英の中国支援ルートであった北部仏印(北ベトナム)に進駐。こうした日本の動きを受け、米国は鉄くずの対日禁輸を発表した。

 日米関係が悪化する中、民間外交での日米関係修復の動きが出てくる。米国の仲介による日中戦争の解決を模索する武藤章陸軍軍務局長はこの動きを逃さなかった。部下の岩畔豪雄軍事課長をワシントンに派遣し交渉に当たらせた。日米交渉が始まろうとしていた。

[1]陸軍の親睦団体。師団など各地に集会所を設けていた。

[2]満鉄付属地など日本権益を守る軍隊。当時は遼東半島・旅順に司令部を置いていた。

写真:近現代PL/アフロ

※引用文献の旧字体を新字体としている部分があります。

山下 大輔

実業之日本フォーラム編集者
2013年4月共同通信社入社。鹿児島、横浜支局などを経て、東京本社経済部、AIサイバー報道チーム。2024年2月から現職。フォーラムでは東アジアを担当。共同通信時代から通常業務の傍ら、ノモンハン事件や226事件などの関係者や研究者への取材を通じ、日本近現代史の検証を続ける。

著者の記事