2度の世界大戦を経て、アメリカを除く主要国の資本は、戦費によって枯渇してしまった。イギリスから覇権を譲り受けたアメリカが主導した国際的施策は「自由市場に基づく公正な世界経済を実現させ、戦火からの復興を達成させ、防共体制の構築を図る」という目的で進められた。ただ、これらの施策は「世界中に米ドルを流通させる」思惑のもとに導入されたという側面も持つ。アメリカは1945年にIMF(国際通貨基金)を創設し、金1オンスと35ドルの交換を保証する金本位制を定めた。こうした金との交換割合をもとに、日本を含む世界45ヵ国を相手に、各国通貨との間で固定相場制を採用する「ブレトン・ウッズ協定」を締結した。
1947年に当時のマーシャル国務長官が打ち出した欧州経済復興援助計画によって、経済支援の一環として大量の米ドルがヨーロッパ諸国に出回った。さらにアメリカは世界銀行を通じて、主に新興国向けに米ドルで経済成長の工業化を支援する貸付けを実行し、さらに莫大な量の米ドルがダイナミックに地球上を駆け巡った。こうしてアメリカは世界中への影響力や存在感を増幅させた。基軸通貨としてのドルの地位を盤石にしたアメリカは軍事力を整備し、国力を増強した。自らの政治的、経済的、軍事的パワーを世界に示し、国際社会のリーダーとして振る舞うようになっていく。米ドル札を刷れば刷るほど国力が上がっていく状況で、アメリカは世界からシニョレッジを受け取り続けた。
1950年代には、アメリカの国際収支赤字はヨーロッパや日本のドル不足を緩和し、これら諸国の経済復興を助けるものとして歓迎されていた。1950~57年の平均総合収支は13億ドルの赤字であったが、この間、アメリカの金準備はほぼ横ばいであった。1957年の金準備額は229億ドルで、1950年の228億ドルとほとんど変わりがない。ただ、1958年から総合収支は年間30億ドルを越える赤字となった。アメリカの対外債務は急増し、ヨーロッパ諸国による金交換請求が増加した。こうして、1960年には対外流動債務(210億ドル)が金準備(178億ドル)を上回った。自由世界のリーダーとしてアメリカは活動してきたことから、海外軍事支出と政府経済贈与の負担も大きかった。ベトナム戦争(1965~1975年)が長引き、1,400億ドルもの戦費を支払ったことや、日本やドイツが国際競争力を回復したことも影響した。
アメリカが経済的権限を示せば示すほど、アメリカ国内からドルが減り、世界各国のドル保有高のほうが多くなっていく。米ドル札が余って、その国際的信用も悪化し始めると、アメリカから金(ゴールド)を引き出す動きが強まり、アメリカが保有する金(ゴールド)が次第に減少していった。1960年頃からドルに対する信認が揺らぎはじめ、「金とドルの交換」に対する懐疑的な見方が増えた。米国の流動債務残高が増える一方であったのに対して、金保有高は減少の一途を辿り、1970年には流動債務残高が433億ドル、金保有高が111億ドルとなった。
1950年代から60年代にかけては、ヨーロッパ諸国は欧州経済共同体を組織して、戦火から立ち直り、互いの連携の道を選び大きく飛躍しようとしていた。日本も奇跡的ともいえる高度経済成長を遂げていた頃である。一方、アメリカはベトナム戦争が長期化し、戦力ならびに戦費に余裕がなくなっていった。アメリカ経済の優位性に陰りが見え始めていただけでなく、世界諸国が大量の米ドルを握っている。このまま金と米ドルを紐付けた「金本位制」を無理に維持したままでは、国際社会から没落するおそれもあった。
ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの衰退局面では「国内経済の衰退、戦争での疲弊、借入の増加、資本の流出」などの共通項が見て取れたが、1970年時点でのアメリカにもその多くが当てはまるようになっていた。
(株式会社フィスコ 中村孝也)
※本原稿は、「覇権国が衰退する時(2):オランダ、イギリス【フィスコ世界経済・金融シナリオ分析会議】」の続きとなる。