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2024.08.16 外交・安全保障

米大統領選 “中西部のオジサン”は中国通、ハリス政権で対中戦略のキーパーソン?

布施 哲

 その無名の人物は突然、全米の表舞台に躍り出てきた。民主党の副大統領候補に指名されたティム・ワルツ氏である。中西部ミネソタ州の州知事だったワルツ氏を知る日本人はほとんどいないだろう。下院議員も短期間務めていたが、ワシントンで同氏を知る人も下院や民主党の一部に限られる。だが、この無名の副大統領候補は日本の運命をも左右するキーパーソンに大化けするかもしれない要注目の人物だ。

中西部のBBQで出会うような白人

 「普通のオジサン」という言葉がピッタリな温厚そうな風貌にユーモアも忘れないソフトな語り口。米メディアでは「中西部でBBQ(バーベキュー)に行った時に出会うような白人」とも評される。その経歴を見ると、慎ましく地域に貢献し、弱き人に配慮し、体は大きく心も優しい白人のオジサンそのものだ。かつて昔いたであろう、私たち日本人が思い浮かべる古き良き時代の田舎に住む米国人のイメージぴったりである。

 中西部ネブラスカ州の住民400人ほどの小さな町で育ち、夏は実家の牧場で働いた。10代で州兵に志願。現場で兵士を取りまとめる下士官の最高位に昇りつめている。その傍ら高校教師を20年以上勤めてきたことが誇りだという(州兵は本業を持ちながら従事できる)。

 米メディアが資産報告書を精査したところ、なんとワルツ氏は株、投資信託、債券を一切、保有していない。持ち家も知事公邸に入居する際に売却していて不動産も持っていない。投資大国の米国でこのクラスの政治家が金融資産や不動産を全く持たないのは極めて珍しい。もはや慎ましさを超えて「清貧」の域に達している。

 この慎ましさは無党派層や若者、黒人などに好感を持って受け止められそうだ。怪しい金融取引でスキャンダルになるリスクもない。何よりこれだけ無欲だとハリス氏の座を脅かす上昇志向や権力欲もなさそうだ。ハリス氏周辺から見ればいいこと尽くめ、といったところだろうか。

 「教師をみくびるな!」――。フィラデルフィアでの演説でこう叫んでみせた同氏は20年以上の教師としての経験が根付いている。父親も教師だったほか、兄弟も教師と結婚していることを誇らしげに語る。アメリカンフットボール部のコーチも務め、州大会優勝にチームを導いたことが誇りだ。

 知事としては弱者に配慮するリベラルな政策を推し進め、ミネソタは学校給食の無料化も実現した全米でも数少ない州の一つとされる。全米ではほとんど無名といっていい。米国のある調査では有権者の7割がワルツ氏のことを知らないと答えている。選挙が3ヶ月後に迫る中でこの知名度の低さは大いに心配になるが、もしかすると大化けするかもしれない。株でいえば「テンバガー株」(株価が急騰して10倍まで跳ね上がる銘柄)ともいえる要注目の人物だと筆者は見ている。

 なぜか。まず、選挙戦でハリス大統領誕生の立役者となる可能性がある。無名のワルツ氏だが、トランプ氏との激戦を乗り切るうえでハリス氏が持っていないピースを持っていることは大きい。アジア系で女性のハリス氏を補って、白人男性票、農村票、退役軍人票を獲得できる見込みもあるからだ。女性や若者、マイノリティー、都市部の支持が固いハリス氏とうまく相互補完できれば、打倒トランプの道筋が見えてくる。

 ワルツ氏が大化けするとすれば、選挙戦の後だろう。ハリスとワルツのコンビで選挙戦を制することになれば「ハリス大統領誕生にこのワルツ氏あり」となるだろう。そうなれば政権発足後の影響力、発言力もおのずと高まることになる。

 一般的に、副大統領は主要な政策決定からは外され、大統領の代わりに行事に出席したりするのが主な仕事だと揶揄される「政権の盲腸」のような存在だ。しかし、ことワルツ氏については「盲腸」どころか「本格的な副大統領」となって政権の要になり得る。

現場を束ねる年収1700万円

 前述の通り、当選への貢献によって政治力が高まることに加え、元軍人(正確には州兵)という軍務経験と、中国に対する造詣の深さの2つがワルツ氏の政策決定における存在感を高めることになるからである。

 まずは軍務経験だ。17歳の誕生日の2日後に州兵に志願。朝鮮戦争に従軍した父に勧められての入隊であった。24年間、陸軍州兵として勤務し、2005年に下士官としての最高位クラスである上級曹長で退役している。ちなみにこの上級曹長という地位と威厳は並の将校よりも遥かに高い。

 大隊と呼ばれる1000人規模の部隊における最高位の下士官であり、将校の命を受けて現場で兵士たちを統率する。部隊が機能するかどうかは現場の軍曹(鬼軍曹をイメージしていただきたい)の統率にかかっているが、上級曹長はそうした軍曹たちの上に立つ「現場の棟梁」であり、現場では実質的な指揮官といってもいい存在だ。

 その職責の重さは待遇にも反映されている。上級曹長は米軍のE-9という給与レベルに該当し、年収12万ドル(1ドル145円のレート換算で年収1700万円余り)だ。ちなみにアフガニスタンにも派遣されたが戦闘経験はない。「私よりももっとつらい任務を果たした人たちはいる。それは理解している」とインタビューで謙虚に語っている。

 現場の軍曹をも言うことを聞かせる「現場の棟梁」を務めた軍務経験は退役軍人に対する選挙上のアピールになるだけでなく、政策決定において国防総省の幹部たちと向き合った時に迫力を与えてくれるだろう。もちろん軍事戦略や高度な作戦を見ていた立場ではないが、将軍たちの振る舞いや指揮を冷静に見てきた経験の持ち主であるだけに軍幹部たちには「ごまかしは通じない」という緊張感を与えることになる。これは政治家として軍人を使う際の大きな武器となる。

中国通という武器

 次にワルツ氏の存在感を高める武器となり得るのが、生の中国を知っているという経験だ。実はかなりの中国通で、米国の政治家としては珍しく中国との関わりが長く深い。米メディアの報道を総合すると、大学卒業直後の1989年に中国・広東省の進学校で1年間、高校教師をして以来、中国との留学生交換など文化交流に尽力してきた。中国への渡航歴は30回以上にのぼるとされる。

 学生時代に知り合った妻との新婚旅行も中国だった。下院議員時代は地元の有権者向けには旧正月を祝うメッセージを中国語で披露していたというから、かなりの中国通といっていい。

 だが、だからといって必ずしも親中派ではない。「あんなに良くしてもらった経験はない」と中国での滞在経験を振り返る同氏だが、「最近の中国には失望している」(2023年9月の日経新聞インタビュー)と語るなど、下院議員、州知事になってからはむしろ中国に対しては厳しい視線を向けている。

 中国への新婚旅行も天安門事件5周年のタイミングをあえて選んで訪中しており、過去の米国人にみられた「いつか中国も民主主義が根付くかもしれない」あるいは「中国という潜在的な巨大マーケットに乗り遅れてはならない」といった中国に対する甘い幻想だけで中国と向き合ってきたわけではないことがうかがえる。中国に親しみをおぼえながらも、中国共産党の統治には冷静な見方をしていたことがわかる。

 実際、下院議員時代は中国の人権弾圧を扱う調査委員会で活動し、中国の人権問題の解決に関する決議案などを共同提出している。特に、チベットでの人権問題に強い関心を見せ(ダライ・ラマとの面会も果たしている)、中国政府と対話を通じて人権の改善を求めていく重要性を議場で訴えている。

 対話の重要性にアクセントがあったり、中国共産党を指弾するというよりはマイルドな言い回しで諭すイメージがあるところを見ると、ナンシー・ペロシ前下院議長のような人権を理由にした対中強硬派とは一線を画している。言うべきことは言うが、対話のドアは閉ざしていない。一言でいえば、バランスのとれた良識派といえそうだ。

「ワルツ副大統領」は本格派に

 ハリス政権、トランプ政権どちらになったとしても、次期政権の最大の外交、国家安全保障上の懸念事項は中国との戦略的競争関係のマネージであり、台湾有事リスクへの対応となる。この台湾問題をどう扱うのか。中国とどう向き合うのかということが米国の国家的課題になる中、ワルツ氏が持つ中国に対する知識と経験の深さは政策決定過程において存在感を高めることになるかもしれない。

 実際、軍の制服組は州兵として24年間勤め上げ、最上級の下士官にまで叩き上げた経歴を持つ副大統領の意見を「盲腸」だと軽んじることはできないだろうし、ハリス氏に信頼できるアドバイザーが少ないことも相対的にワルツ氏の存在感を高めることになるかもしれない。

 ハリス氏は側近が次々と辞めてしまい、周りを親族や身内で固めているような有様だ。部下を束ねる力や行政手腕には疑問符がつけられているのはワシントンでは広く知られており、バイデン大統領の指名受諾辞退がもっと早ければ、そもそも民主党の公認候補の指名を勝ち取ることができたかどうかも怪しい。

 となると、政治経験も豊富で人格者。軍にも睨みが効き、中国にも通じている「ワルツ副大統領」の存在感が対中政策の決定において高まらないわけがない。

習近平と渡り合えるか?

 ハリス氏の外交・安保での経験の浅さは心配になる。同氏は州司法長官や地方検事の経験はあるが、外交の駆け引きは法律で相手をやり込めるのとは違う。米中対立では相手を脅したりすかしたりしながらも、国益の確保と中国との一致点を見出さなければならない。時には大を取るために小を犠牲にするような厳しい選択を迫られることもあるだろう。理念やきれいごとだけでは乗り切れないリアリズムの世界だ。

 そんな弱肉強食の国際政治の最前線でハリス氏は米国大統領として(当選すれば)世界や地域の安定を背負って立つことになる。彼女が海千山千の習近平国家主席らと向き合っていくうえで、中国通で軍務経験もあるワルツ氏を頼ることになるであろうことは想像に難くない。

 もし中国が台湾を実力行使で統一使用とした時に米国はどう出るのか。これは日本を含めたアジアの運命を左右する戦略的決断となる。今からワルツ氏がどのような進言をするのかを見通すことは難しい。同氏は決して中国に対して甘い幻想を抱いていないという意味では、希望的観測を排除しながら中国共産党の実態を踏まえた現実的な情勢評価が期待できそうな人物といえる。

 また、「隣人を思いやり、困っている人に救いの手を差し伸べるのが私たちだ」(8月8日の集会での演説)という信念が台湾支援という判断に向かわせる可能性も大いにある。例えば、中国が一方的に台湾を蹂躙するやり方で統一を試みたり、海上封鎖などで台湾が食料不足やエネルギー不足に見舞われるといった状況になれば、それを打破するオプションを進言する展開があってもおかしくない。

 軍事力の行使についてどの程度、積極的なのか、または抑制的なのかを窺い知る手がかりは少ない。下院議員だった2006年4月には米陸軍の人員削減に歯止めをかける法案に共和党議員とともに賛成している。「軍拡をしたいと言っているのではなく、削減のストップだ。世界情勢を踏まえて適正なサイズの軍を求めているだけだ」と反対派に訴えている。これを見ると、イケイケドンドンの軍拡派というよりは思慮深く軍の限界も役割も理解しながら軍事力の役割を位置付けていることが窺わせる。

 一定の軍事力が必要な理由として、ワルツ氏は南シナ海での中国の軍事利用の進展を理由の一つに挙げてはいるが、中国の軍事的脅威を故意に強調したというよりは、客観情勢の大前提として指摘したというニュアンスに留まっていて、同氏が中国に対してことさら対立的あるいは台湾の防衛に積極的と断定できる要素は発言から確認できない。

 限られた情報で言えるとすれば、人権問題というレンズで中国を見てきたことや、隣人との助け合いを信奉するキャラクターから、台湾有事が残虐性のある手法や深刻な人権侵害を伴った場合には強い対応に出る可能性があるという点だろう。つまり、台湾有事の始まり方、中国のやり方によっては「ワルツ副大統領」は軍事的関与を含めた強い反応を支持することがあるかもしれないということだ。

 いずれにしても無名のオジサンと侮ることはできない要注目の人物だ。共和党副大統領候補のバンス氏が持つトランプ氏に対する影響力とは比べものにならないくらいの存在感をハリス氏との関係において発揮するであろうことは間違いない。もしハリス氏が目先の選挙対策上のメリットに加え、政権発足後の対中戦略という重要アジェンダへの対応も見据えて、無名のワルツ氏を選んだとすれば、ハリス氏もなかなかのやり手なのではないかと思わされる(あるいは助言した人物が優秀なのか)。

 ハリス政権発足となれば任期は2029年1月までだ。台湾有事が起きるかもしれない最も危険な時期にちょうど重なる。ことの成り行きによっては、ワルツ氏が台湾有事への米国の出方を左右するキ―パーソンになってもおかしくない。そうなれば間接的に日本の運命にも大きな影響を与え得る。

 はたして「トランプ2.0」を阻止してハリス政権誕生の立役者となり、新政権のキーパーソンとして大化けすることになるのか。中西部の田舎から突然、全米の表舞台に躍り出てきたこの「オジサン」から目が離せそうもない。当然、中国をはじめ各国の情報機関はワルツ氏の分析を始めていることだろう。

写真:AP/アフロ

地経学の視点

 下馬評では、民主党副大統領の最有力候補には東部ペンシルベニア州知事のジョシュ・シャピロ氏の名前が挙がっていた。米大統領選では全米50州のうち勝利政党が変動しやすい「スイング・ステート」と呼ばれる7つの激戦州の票をいかに積み上げるかがカギを握り、7州中最大の票田となるペンシルベニア州の勝敗が選挙結果を大きく左右するからだ。

 シャピロ氏は51歳と若く演説もうまい上、カリスマ性のある党の星だが、最終的には清貧で派手さがなく人のよいオジサンに見えるワルツ氏が指名された。そのペンシルベニア州で8月7日、ハリス・ワルツ両氏が揃って初集会を実施。演説では「フリーダム」をキーワードとして多用し、人工妊娠中絶の権利擁護や銃規制強化に取り組むことを誓った。

 ただ、大統領選でより重要な争点はインフレや不法移民の問題であり、外交・安全保障問題に至ってはハリス・ワルツ両氏に経験がなく全くの未知数だ。それでもワルツ氏の存在が台湾有事などを巡る対中政策に大きな影響を及ぼし得るという筆者の指摘は大変興味深い。本選まで残り約3カ月となるが、今後も暗殺未遂や退陣表明に続くサプライズが起きないとも限らない。まずは、8月19~22日に開かれる民主党大会に注目したい。(編集部)

布施 哲

国際社会経済研究所(IISE)特別研究主幹
1974年東京生まれ。上智大学法学部卒業、テレビ朝日入社、政治部記者、ワシントン支局長、Zホールディングス経済安全保障部長を経て現職。信州大学特任教授、海上自衛隊幹部学校客員研究員を兼務。防衛大学校総合安全保障研究科卒業(国際安全保障学修士)。米軍事シンクタンクCSBA客員研究員(フルブライト奨学生)、ジョージタウン大学客員研究員として安全保障を研究。国際安全保障学会最優秀新人論文賞。単著に『日本企業にとっての経済安全保障』(PHP新書)、『先端技術と米中戦略競争』(秀和システム)、『米軍と人民解放軍』(講談社現代新書)。