安倍晋三元首相が7月8日、奈良県での参院選の応援演説中に銃撃され、同日、死亡した。歴代連続在任日数となる7年8カ月に及ぶ第2次政権で、国内にあっては「アベノミクス」と総称する成長戦略、金融政策を実践。国際社会においては日米関係の強化に尽力し、集団的自衛権の限定行使が可能になる安全保障関連法の成立など安全保障分野で功績を残したほか、「地球儀を俯瞰する外交」を掲げて世界のリーダーとひろく信頼関係を構築した。第1次政権時の2007年からその構想を提唱していた「自由で開かれたインド太平洋」の理念は、中国の台頭を先見し、価値観を同じくする米国・豪州・インドとのネットワークの強化の必要性を訴えており、やがてクアッドとして結実している。
各国各地でなされた安倍氏の演説は、いずれも聴衆側の文化的、歴史的なコンテクストに立ち、時に過去の利害対立なども織り込みながら、それでも今、共に寄ることのできる価値観を訴える名文が多く、国境や民族の超えて聞く人たちの心を動かした。ここに、その中でも重要度が高いものの一部を抜粋し、同氏の足跡を振り返りたい。
「2つの海の交わり」と「自由と繁栄の弧」
皆様、日本はこのほど貴国(引用注:インド)と「戦略的グローバル・パートナーシップ」を結び、関係を太く、強くしていくことで意思を一つにいたしました。貴国に対してどんな認識と期待を持ってそのような判断に至ったのか、私はいま私見を申し述べましたが、一端をご理解いただけたことと思います。
このパートナーシップは、自由と民主主義、基本的人権の尊重といった基本的価値と、戦略的利益とを共有する結合です。
日本外交は今、ユーラシア大陸の外延に沿って「自由と繁栄の弧」と呼べる一円ができるよう、随所でいろいろな構想を進めています。日本とインドの戦略的グローバル・パートナーシップとは、まさしくそのような営みにおいて、要(かなめ)をなすものです。
日本とインドが結びつくことによって、「拡大アジア」は米国や豪州を巻き込み、太平洋全域にまで及ぶ広大なネットワークへと成長するでしょう。開かれて透明な、ヒトとモノ、資本と知恵が自在に行き来するネットワークです。
ここに自由を、繁栄を追い求めていくことこそは、我々両民主主義国家が担うべき大切な役割だとは言えないでしょうか。
また共に海洋国家であるインドと日本は、シーレーンの安全に死活的利益を託す国です。ここでシーレーンとは、世界経済にとって最も重要な、海上輸送路のことであるのは言うまでもありません。
志を同じくする諸国と力を合わせつつ、これの保全という、私たちに課せられた重責を、これからは共に担っていこうではありませんか。
「二つの海の交わり」~インド国会(2007年8月22日)
2007年8月22日、最年少宰相として第1次政権を率いた安倍氏はインド国会で演説した。中国が大陸に「一帯一路」の触手を伸ばそうとするのに対抗し、自由、民主主義、基本的人権、法の支配、市場経済などの価値観を同じくする国々をインド太平洋に結ぼうという「自由と繁栄の弧」の理念を打ち出した。日印のパートナーシップが、米国や豪州までを巻き込んだネットワークに発展していくことをすでに展望している。
「インド太平洋」という地域を価値観で結ぶ(自由で開かれたインド太平洋)という地政学的な発見の独創性と先見性は高く評価されており、米国は事実上、安倍氏の主唱したこの理念に追随した。その後、日米豪印4か国の枠組みであるクアッドとして結実している。安倍氏の死去を受け、米バイデン大統領は「クアッドは安倍氏の不朽の遺産だ」とその功績を称えた。
「私はカムバックした、日本もそうでなけれなならない」
昨年、リチャード・アーミテージ、ジョゼフ・ナイ、マイケル・グリーンやほかのいろんな人たちが、日本についての報告を出しました。そこで彼らが問うたのは、日本はもしかして、二級国家になってしまうのだろうかということでした。
アーミテージさん、わたしからお答えします。日本は今も、これからも、二級国家にはなりません。それが、ここでわたしがいちばん言いたかったことであります。繰り返して申します。わたくしは、カムバックをいたしました。日本も、そうでなくてはなりません。
総理の職を離れて、5年という長い年月を送りました。それは、わたしにとって省察の時となりました。何はともあれ、これからの日本はどこに立つべきか、ということについてであります。あれこれが、果たして日本にはできるだろうかとは考えませんでした。何を、日本はなし続けねばならないかに、関心が向くのが常でした。そのような場合、変わらず胸中にありましたのは、次の3つの課題であります。
いまやアジア・太平洋地域、インド・太平洋地域は、ますますもって豊かになりつつあります。そこにおける日本とは、ルールのプロモーターとして主導的な地位にあらねばなりません。ここで言いますルールとは、貿易、投資、知的財産権、労働や環境を律するルールのことです。
第二に、日本はこれからも、誰しもすべてを益すべく十分に開かれた海洋公共財など、グローバルコモンズの守護者であり続けねばなりません。
日本とはかような意欲を持つ国でありますからこそ、第三に、わが国は米国はじめ、韓国、豪州など、志を同じくする一円の民主主義各国と、いままで以上に力を合わせなくてはなりません。
ルールの増進者であって、コモンズの守護者、そして米国など民主主義諸国にとって力を発揮できる同盟相手であり、仲間である国。これらはすべて、日本が満たさなくてはならない役割なのです。
米ワシントンDC、CSIS(2013年2月22日)
第1次政権は、不祥事が相次いで支持率が低迷し、参院選の敗北を受けて安倍おろしが起こるなど党内外の支持を失う中、持病である潰瘍性大腸炎が悪化して安倍氏が首相を辞任したことで2007年に終焉した。この演説は、辞任後に民主党に政権を奪われて下野を余儀なくされたのち、5年の空白期間を経て2013年に第2次政権を発足させた直後に米国でなされたもの。「日本は二級国家になるのか」という米国の知日派たちに対して「Japan is back」を宣言している。そのための具体的な政策として「アベノミクス」が打ち出されていくことになる。
「バイ・マイ・アベノミクス(アベノミクスは買いだ)」
世界経済を動かす「ウォール街」。この名前を聞くきますと、マイケル・ダグラス演じるゴードン・ゲッコーを思い出します。
1987年の第一作では、「日経平均(Nikkei Index)」という言葉が出てきます。日本のビジネスマンも登場し、日本経済がジャガーノートであるかに思われていた時代を彷彿とさせるものでした。
しかし、2010年の第二作では、出てくる投資家は中国人、ゴードンが財をなすのはウォール街ではなくてロンドン。日本はその不在においてのみ目立ちます。「Money never sleeps」のタイトルさながらに、お金は儲かるところに流れる、その原理は極めてシビアです。
たしかに、日本はバブルが崩壊した後、90年代から20年近くデフレに苦しみ、そして、経済は低迷してきました。しかし、今日は皆さんに「日本がもう一度儲かる国になる」、23年の時を経てゴードンが金融界にカムバックしたように、「Japan is back」だということをお話しするためにやってきました。
足元の日本経済は極めて好調です。私が政権をとる前の昨年7-9月期にマイナス成長であった日本経済は、今年に入って二期連続で年率3%以上のプラス成長となりました。これは大胆な金融緩和による単なる金融現象ではありません。生産も、消費も、そしてようやく設備投資もプラスになってきました。長いデフレで縮こまっていた企業のマインドは確実に変わってきています。
ここで成長戦略を実行し、先ほど述べた様々なポテンシャルを開花させていけば、日本を再び安定的な成長軌道に乗せることができる。これが私の「三本の矢」政策の基本的な考え方です。
日本に帰ったら、直ちに成長戦略の次なる矢を放ちます。投資を喚起するため大胆な減税を断行します。
世界第三位の経済大国である日本が復活する。これは間違いなく、世界経済回復の大きなけん引役となります。日本はアメリカからたくさんの製品を輸入しています。日本の消費回復は確実にアメリカの輸出増大に寄与する。そのことを申し上げておきたいと思います。
ゴードン・ゲッコー風に申し上げれば、世界経済回復のためには、3語で十分です。
「Buy my Abenomics」
ウォール街の皆様は常に世界の半歩先を行く。ですから今がチャンスです。
米国、ニューヨーク証券取引所(2013年9月25日)
米国人なら誰もが知る映画『Wall Street』(1987年)に登場する野心的で魅力的な投資家ゴードン・ゲッコーの名セリフをちりばめており、聴衆の文化的コンテクストをうまく盛り込みながら引き込んでいく安倍演説の1つの典型だろう。「Money never sleep」はそのまま。「3語で十分です。Buy my Abenomics」は「3語で十分だ。Buy my book(ウチは買いだ)」のパロディー。長く低成長に苦しんできた日本が復活すること、自身も一度、権力の座から下り、さらに下野も余儀なくされたのちに捲土重来したことと、ゴードン・ゲッコーが2作目でカムバックしたことも重ねている。
「日本がもう一度強くなる」ではなく「日本がもう一度(米国にとって)儲かる国になる」という直截なメッセージを、しかも海外からの投資を積極的に呼び込もうとする姿勢があまり見られない国の宰相が証券取引所で訴える。改革の中身もさることながら、この演説がなされたこと自体が強烈なメッセージとなった。
「フクシマの状況は統御されています」
委員長、ならびにIOC委員の皆様、東京で、この今も、そして2020年を迎えても世界有数の安全な都市、東京で大会を開けますならば、それは私どもにとってこのうえない名誉となるでありましょう。
フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。
さらに申し上げます。ほかの、どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアムから、確かな財政措置に至るまで、2020年東京大会は、その確実な実行が、確証されたものとなります。
けれども私は本日、もっとはるかに重要な、あるメッセージを携えてまいりました。
それは、私ども日本人こそは、オリンピック運動を、真に信奉する者たちだということであります。
この私にしてからが、ひとつの好例です。
私が大学に入ったのは、1973年、そして始めたのが、アーチェリーでした。一体どうしてだったか、おわかりでしょうか。
その前の年、ミュンヘンで、オリンピックの歴史では久方ぶりに、アーチェリーが、オリンピック競技として復活したということがあったのです。
つまり私のオリンピックへの愛たるや、そのとき、すでに確固たるものだった。それが、窺えるわけであります。
いまも、こうして目を瞑りますと、1964年東京大会開会式の情景が、まざまざと蘇ります。
いっせいに放たれた、何千という鳩。紺碧の空高く、5つのジェット機が描いた五輪の輪。何もかも、わずか10歳だった私の、目を見張らせるものでした。
スポーツこそは、世界をつなぐ。そして万人に、等しい機会を与えるものがスポーツであると、私たちは学びました。
オリンピックの遺産とは、建築物ばかりをいうのではない。国家を挙げて推進した、あれこれのプロジェクトのことだけいうのでもなくて、それは、グローバルなビジョンをもつことだ、そして、人間への投資をすることだと、オリンピックの精神は私たちに教えました。
だからこそ、その翌年です。日本は、ボランティアの組織を拵えました。広く、遠くへと、スポーツのメッセージを送り届ける仕事に乗り出したのです。
以来、3000人にも及ぶ日本の若者が、スポーツのインストラクターとして働きます。赴任した先の国は、80を超える数に上ります。
働きを通じ、100万を超す人々の、心の琴線に触れたのです。
アルゼンチン、ブエノスアイレス(2013年9月7日)
2020年に開催される予定だったオリンピックについて、東京はトルコ・イスタンブールなどと誘致を競い合った。時はまだ2011年の東日本大震災の爪痕も新たな2013年。世界には原発事故の影響に対する懸念も色濃く残っていた。そんな中、安倍氏はIOC総会で演説。原発事故の状況が制御下にあり、東京には影響はないと明言した。英文では「Some may have concerns about Fukushima. Let me assure you, the situation is under control. It has never done and will never do any damage to Tokyo.」。この断言には、科学的にそこまで言い切れるのかという批判も一部出た。
同日、IOC総会は東京開催を決定。東京五輪は安倍氏のレガシーの1つとなるはずだったが、新型コロナのパンデミックを受けて2021年に延期され、自身の退陣後の開催となった。規模も大幅に縮小された。
「私たちの同盟を、『希望の同盟』と呼びましょう」
先刻私は、第二次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐な場所でした。耳朶を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。
一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。
その星一つ、ひとつが、斃れた兵士100人分の命を表すと聞いたとき、私を戦慄が襲いました。
金色(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。
真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。
歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙祷を捧げました。
親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます。
みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。
近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、仰っています。
「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えることだ」。
もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のお祖父さんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。
これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。
熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。ほんとうに、ありがとうございました。
戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません。
アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。自らに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。
焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2,036頭、やってきました。
米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。
下って1980年代以降、韓国が、台湾が、ASEAN諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。
こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。
日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。
太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。
許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。
その営為こそが、TPPにほかなりません。
しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。
経済規模で、世界の4割、貿易量で、世界の3分の1を占める一円に、私達の子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。
日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。
実は、いまだから言えることがあります。
20年以上前、GATT農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。
ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。
日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。
私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます。
世界標準に則って、コーポレート・ガバナンスを強めました。医療・エネルギーなどの分野で、岩盤のように固い規制を、私自身が槍の穂先となりこじあけてきました。
人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています。
日本はいま、「クォンタム・リープ(量子的飛躍)」のさなかにあります。
親愛なる、上院、下院議員の皆様、どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。
日本は、どんな改革からも逃げません。ただ前だけを見て構造改革を進める。この道のほか、道なし。確信しています。
親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。
省みて私が心から良かったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父の言葉にあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。
日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。
この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません。
私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。
日本は豪州、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。
日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は格段に安定します。
日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。
アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。
第一に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第二に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第三に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。
太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。
そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私達には、その責任があります。
日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。
この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。
戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。
ここで皆様にご報告したいことがあります。一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外相、中谷防衛相と会って、協議をしました。
いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。
それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません。昨日、オバマ大統領と私は、その意義について、互いに認め合いました。皆様、私たちは、真に歴史的な文書に、合意をしたのです。
まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。
「落ち込んだ時、困った時、目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」。
2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。
そして、そのときでした。米軍は、未曾有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子供たちに、支援の手を差し伸べてくれました。
私たちには、トモダチがいました。
被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれた。
希望、です。
米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。
米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。
希望の同盟。一緒でなら、きっとできます。
ありがとうございました。
米国連邦議会上下両院合同会議(2015年4月29日)
日本の首相として初めて米国上下院会議に招かれた際のこの演説は、数ある安倍演説の中でも最高峰とされる。英文で45分間、通訳なしでなされた。
日米両国の兵士はそれぞれの国のために戦い、傷つき、斃れたが、その困難から立ち上がり、今や価値観を同じくし、繁栄と共にするかけがえのない友邦となった――。そのストーリーには、過去の戦禍に対する痛切な反省や、斃れた米国の若者やその家族、未来に対する痛惜の念は含まれているが、決して敗戦国の戦勝国へのおもねりはなかった。その、毅然としながらも、米国人の痛みと米国らしい愛国心に寄り添うバランス感覚は、安倍氏やそのブレーンらが構成や言葉を練り上げた成果だっただろう。安倍氏はこの演説のために、英語の発音やトーンについて相当な訓練を重ねた。
演説後には長くスタンディング・オーベーションが起こり、米国有力紙が相次いで絶賛した。
広島と真珠湾、オバマ大統領と
昨年、戦後70年の節目に当たり、私は、米国を訪問し、米国の上下両院の合同会議において、日本の内閣総理大臣として、スピーチを行いました。
あの戦争によって、多くの米国の若者たちの夢が失われ、未来が失われました。その苛烈な歴史に、改めて思いをいたし、先の戦争で斃(たお)れた、米国の全ての人々の魂に、とこしえの哀悼を捧げました。
そして、この70年間、和解のために力を尽くしてくれた日米両国全ての人々に、感謝と尊敬の念を表しました。
熾烈に戦いあった敵は、70年の時を経て、心の紐帯(ちゅうたい)を結ぶ友となり、深い信頼と友情によって結ばれる同盟国となりました。そうして生まれた日米同盟は、世界に「希望」を生み出す同盟でなければならない。私は、スピーチで、そう訴えました。
あれから1年。今度は、オバマ大統領が、米国のリーダーとして初めて、この被爆地・広島を訪問してくれました。
米国の大統領が、被爆の実相に触れ、「核兵器のない世界」への決意を新たにする。「核なき世界」を信じてやまない世界中の人々に、大きな「希望」を与えてくれました。
広島の人々のみならず、全ての日本国民が待ち望んだ、この歴史的な訪問を心から歓迎したいと思います。
日米両国の和解、そして信頼と友情の歴史に、新たなページを刻む、オバマ大統領の決断と勇気に対して、心から皆様と共に敬意を表したいと思います。
先ほど、私とオバマ大統領は、先の大戦において、そして原爆投下によって犠牲となった全ての人々に対し、哀悼の誠を捧げました。
71年前、広島、そして長崎では、たった一発の原子爆弾によって、何の罪もない、たくさんの市井の人々が、そして子供たちが、無残にも犠牲となりました。一人一人に、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実を噛みしめる時、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
今なお、被爆によって、大変な苦痛を受けておられる方々も、いらっしゃいます。
71年前、正にこの地にあって、想像を絶するような悲惨な経験をした方々の「思い」。それは、筆舌に尽くし難いものであります。様々な「思い」が去来したであろう、その胸の中にあって、ただ、このことだけは間違いありません。
世界中のどこであろうとも、
再び、このような悲惨な経験を
決して繰り返させてはならない。
この痛切な「思い」をしっかりと受け継いでいくことが、今を生きる私たちの責任であります。
「核兵器のない世界」を必ず実現する。その道のりが、いかに長く、いかに困難なものであろうとも、絶え間なく、努力を積み重ねていくことが、今を生きる私たちの責任であります。
そして、あの忘れ得ぬ日に生まれた子供たちが、恒久平和を願って点(とも)した、あの「灯(ともしび)」に誓って、世界の平和と繁栄に力を尽くす、それが、今を生きる私たちの責任であります。
必ずや、その責任を果たしていく。日本と米国が、力を合わせて、世界の人々に「希望を生み出す灯」となる。この地に立ち、オバマ大統領と共に、改めて、固く決意しています。
そのことが、広島、長崎で原子爆弾の犠牲となった、数多(あまた)の御霊の思いに応える、唯一の道である。
私は、そう確信しています。
広島、日米両首脳によるステートメント(2016年5月27日)
2016年5月27日、米・オバマ大統領(当時)が現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問した。オバマ大統領も以下で始まるステートメントを発表している。
「71年前の雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界は一変した。閃光(せんこう)と火の壁が街を破壊した。そして人類が自らを滅ぼす手段を持ったことを明示した。なぜわれわれはこの地、広島にやって来るのか。そう遠くない過去に放たれた恐ろしい力について思案するために来るのだ。10万人以上の日本人の男性、女性、子どもたち、数千人の朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために来るのだ。彼らの魂は私たちに話し掛ける。そして彼らは私たちに内面を見つめるように求め、私たちは何者なのか、何者になるかもしれないのかを見定めるよう求めるのだ」
1年前の安倍氏の議会演説と同じく、日米両国が、お互いに目をそむけたくなる過去の歴史を直視して、より強固な紐帯を結んでいこうという文脈で実現したものだ。もちろん背景には米国政府の「ピボット・ツー・アジア(リバランス)」政策があり、また、オバマ大統領自身の人道的な関心もあった。
これを受けて、さらに安倍氏は同年12月に真珠湾を訪れている。以下がその際のスピーチだ。
オバマ大統領、ハリス司令官、御列席の皆様、そして、全ての、アメリカ国民の皆様。
パールハーバー、真珠湾に、今、私は、日本国総理大臣として立っています。
耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入り江。
私の後ろ、海の上の、白い、アリゾナ・メモリアル。
あの、慰霊の場を、オバマ大統領と共に訪れました。
そこは、私に、沈黙をうながす場所でした。
亡くなった、軍人たちの名が、記されています。
祖国を守る崇高な任務のため、カリフォルニア、ミシガン、ニューヨーク、テキサス、様々な地から来て、乗り組んでいた兵士たちが、あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いたとき、紅蓮(ぐれん)の炎の中で、死んでいった。
75年が経った今も、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。
耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と、波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。
あの日、日曜の朝の、明るく寛(くつろ)いだ、弾む会話の声。
自分の未来を、そして夢を語り合う、若い兵士たちの声。
最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。
生まれてくる子の、幸せを祈る声。
一人ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。愛する妻や、恋人がいた。成長を楽しみにしている、子供たちがいたでしょう。
それら、全ての思いが断たれてしまった。
その厳粛な事実を思うとき、かみしめるとき、私は、言葉を失います。
その御霊(みたま)よ、安らかなれ――。思いを込め、私は日本国民を代表して、兵士たちが眠る海に、花を投じました。
オバマ大統領、アメリカ国民の皆さん、世界の、様々な国の皆さん。
私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々の御霊に、ここから始まった戦いが奪った、全ての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった、数知れぬ、無辜(むこ)の民の魂に、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。
私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。
戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆様に、世界の人々に、固い、その決意を、日本国総理大臣として、表明いたします。
米国訪問 日米両首脳によるステートメント(2016年12月27日)
トランプ政権の誕生
米国を訪問するのは、昨年のハワイ・真珠湾以来。この半年間で4度目となります。
アメリカ国民の皆様のいつも変わらない温かい歓迎に、心から感謝申し上げたいと思います。
そして、トランプ大統領には、就任100日という大変重要なとても忙しいこのタイミングでホワイトハウスにお招きいただいたこと、大統領に心から感謝申し上げます。
私の名前は「安倍」でありますが、時折、アメリカでは「エイブ」と発音されます。しかし、私は余り悪い気はしないわけでありまして、あの偉大な大統領の名を我が国においても知らない人はいないからであります。
農民大工の息子が大統領になる。
その事実は、150年前、(江戸幕府の)将軍の統治の下にあった日本人を驚かせ、民主主義へと開眼させました。米国こそ民主主義のチャンピオンであります。
大統領はすばらしいビジネスマンではありますが、議員や知事など公職の経験はありませんでした。それでも、1年以上にわたる厳しい厳しい選挙戦を勝ち抜き、新しい大統領に選出された。これこそ、正に民主主義のダイナミズムであります。大統領就任を心から祝福したいと思います。
米国は世界で最もチャンスにあふれた国である。それは、今までも現在もこれからも変わることはないと思います。
日米共同記者会見(2016年2月10日)
2016年の米大統領選挙期間中には当選が有力とされていたヒラリー・クリントン氏と会談していた安倍氏だが、大勢の予想に反してドナルド・トランプ氏の当選が確定するとただちにトランプ氏と連絡を取り、投開票の9日後には他国の首脳に先駆けて渡米して会談した。「朝貢外交」との揶揄も受けたが、以降、トランプ大統領とは蜜月の関係を築き、日米関係をより強固なものとした。
トランプ元大統領は安倍氏の死去を受け「安倍晋三がいかに偉大な人物であり、リーダーであったかを知る人は少ないが、歴史がそれを教えてくれるだろう」と悼んだ。7月11日時点で、安倍氏の葬儀への出席を検討しているとの報道もある。
プーチン大統領と見た「童話の世界」
会場の皆さん、御承知のとおり、プーチン大統領は柔道の黒帯でいらっしゃいます。実はバトトルガ大統領も柔道の黒帯なんです。そして、私の知る限り、この会場にももう1人柔道の黒帯がおられます。それは、オリンピック金メダリストの山下泰裕八段であります。いらっしゃいますでしょうか。山下八段に御提案せずにはいられません。山下さん、是非、全日本柔道連盟の招待で、お2人の黒帯の大統領を日本にお連れできないでしょうか。そして山下さんと3人で組み手を見せてくださる。どうでしょう。皆さんも御覧になりたいと思いませんか。私は黒帯ではありませんし、けがもしたくありませんので、私は静かに観戦させていただきたいと思います。
さて昨年12月、プーチン大統領は私の故郷(ふるさと)、長門市に来てくれました。日本海に面する小さな街です。冷たいみぞれの中、我が故郷の人々はプーチン大統領を歓迎しようと、沿道で出迎えてくれました。一夜が明け、私たち2人、目をやった庭園は、白一色でした。夜半、みぞれは雪に変わっていました。美しい。童話の世界だ。大統領から言葉が漏れました。一連のこれらの光景は、私たち2人にとって忘れ難い記憶となっています。
皆様、このときプーチン大統領と私は5時間掛けて話し合い、過去でなく未来にのみ瞳を凝らそうと覚悟を決めました。日露関係がその潜在力を解放した先に現れる、可能性の沃野(よくや)。そこを目掛けて、今何をすべきかを決めようと心に決めました。日露関係の歴史は、このとき新時代の幕を開けました。勢いは弾みをつけ、新たな発展を次々もたらしています。
日本とロシアは、なお一層信頼を深め、経済と安全保障の両面で関係を強くして、北東アジアに強固な安定の要を築かなければなりません。海洋秩序に法の支配を育てる努力も、私は日露の協力によって進めたい。安全保障を巡る対話の中、たゆまず続けていきたいと思います。
日本とロシアの間で、過去70年できなかったことが、このたった1年で幾つも動き出しました。また1年、そのまた1年と歩みを続けていったなら、その先に見えてくるのは、日露関係が、その持てる潜在力を存分に開花させた輝かしい未来です。そのためにこそ、今に至るも平和条約がないという異常な事態に、私たちは終止符を打たなければなりません。ウラジーミル、私たち2人、その責務を果たしていこうではありませんか。あらゆる困難を乗り越えて、日本とロシア、2つの国がその可能性を大きく開花させる世界を、次の世代の若人たちに残していきましょう。会場にお集まりの全ての皆様にも訴えます。日露の新たな時代を、日本人とロシア人、手を携え合って切り拓いていこうではありませんか。
東方経済フォーラム全体会合 安倍総理スピーチ(2017年9月7日)
安倍氏は首相在任中、数多くのリーダーと親密な関係を構築したが、そのうちの1人がロシアのプーチン大統領だ。このスピーチは、ロシア極東部への諸外国からの投資を促すためにロシアがウラジオストクで開催している東方経済フォーラムに登壇したときのもの。ウクライナ戦争勃発から日露関係は冷え切っているが、当時のムードはかつてないほど友好的だった。安倍氏は在任中、毎年、同フォーラムに参加していた。
プーチン大統領が個人的な友情を公的なかたちで表明するのはまれだが、安倍氏の死去を受け、安倍氏への家族に弔電を打ち「私と晋三は定期的な連絡を取り続けたが、その中で彼の素晴らしい個人としての、またプロフェッショナルな資質が完全に発揮されていた」とその喪失を惜しんでいる。ロシアの国営放送などでも「プーチン大統領と最も親密な関係を築いた首脳が死亡した」と、安倍氏死去のニュースを繰り返し報じた。
拉致問題、ロシアとの平和条約、憲法改正…果たせなかった課題
政治においては、最も重要なことは結果を出すことである。私は、政権発足以来、そう申し上げ、この7年8か月、結果を出すために全身全霊を傾けてまいりました。病気と治療を抱え、体力が万全でないという苦痛の中、大切な政治判断を誤ること、結果を出せないことがあってはなりません。国民の皆様の負託に自信を持って応えられる状態でなくなった以上、総理大臣の地位にあり続けるべきではないと判断いたしました。
総理大臣の職を辞することといたします。
現下の最大の課題であるコロナ対応に障害が生じるようなことはできる限り避けなければならない。この1か月程度、その一心でありました。悩みに悩みましたが、この足元において、7月以降の感染拡大が減少傾向へと転じたこと、そして、冬を見据えて実施すべき対応策を取りまとめることができたことから、新体制に移行するのであればこのタイミングしかないと判断いたしました。
この7年8か月、様々な課題にチャレンジしてまいりました。残された課題も残念ながら多々ありますが、同時に、様々な課題に挑戦する中で、達成できたこと、実現できたこともあります。全ては国政選挙の度に力強い信任を与えてくださった、背中を押していただいた国民の皆様のおかげであります。本当にありがとうございました。
そうした御支援を頂いたにもかかわらず、任期をあと1年、まだ1年を残し、他の様々な政策が実現途上にある中、コロナ禍の中、職を辞することとなったことについて、国民の皆様に心よりお詫(わ)びを申し上げます。
拉致問題をこの手で解決できなかったことは痛恨の極みであります。ロシアとの平和条約、また、憲法改正、志半ばで職を去ることは断腸の思いであります。しかし、いずれも自民党として国民の皆様にお約束をした政策であり、新たな強力な体制の下、更なる政策推進力を得て、実現に向けて進んでいくものと確信しております。もとより、次の総理が任命されるまでの間、最後までしっかりとその責任を果たしてまいります。そして、治療によって何とか体調を万全とし、新体制を一議員として支えてまいりたいと考えております。
首相会見(2020年8月28日)
コロナ禍が拡大する中での「アベノマスク」を初めとする感染症対策への批判、森友学園・加計学園問題への批判などが高まる中、持病の潰瘍性大腸炎が再発し、安倍氏は2020年8月に辞任を決めた。会見では、特に自身が注力してきた「拉致問題」「ロシアとの平和条約」「憲法改正」を挙げ、未完であることを「断腸の思い」とした。
第1次政権を含めた通算在職期間は2822日、第2次政権からの連続在任期間は3188日で、いずれも憲政史上最長となった。第1次政権で、権力基盤の脆弱性から思うような政権運営ができなかった反省を踏まえ、第2次政権では憲法改正などの大きな課題よりも経済政策を前面に打ち出し、支持基盤を固めることを優先した。その結果、次々に宰相の顔が変わる日本にあって珍しい長期政権となり、海外諸国の首脳と個人的な関係を築くことができた。また、強い権力基盤のうえで選挙戦を優位に戦い、2度の消費増税も達成。安全保障関連法の制定にも漕ぎつけている。
ここに挙げたスピーチはその足跡のほんの一部に過ぎない。首相のスピーチは官邸サイトに掲載されるが、退陣した政権の官邸サイトは上書きされて閲覧できなくなってしまう。しかし、実は遡って見られるように別のアドレスでアーカイブされており、その足跡を演説動画などでたどることもできる。
写真:代表撮影/ロイター/アフロ