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2021.06.10 船橋洋一の視点

南洋と「インド太平洋」:新たなフロンティア
『実業之日本』と地政学(7-5)船橋洋一編集顧問との対談:地経学時代の日本の針路

白井 一成 船橋 洋一

ポストコロナ時代の日本の針路

「国力・国富・国益」の構造から見た日本の生存戦略

ゲスト
船橋洋一(実業之日本フォーラム編集顧問、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長、元朝日新聞社主筆)

聞き手
白井一成(株式会社実業之日本社社主、社会福祉法人善光会創設者、事業家・投資家)

白井:大正期の『実業之日本』では、新渡戸稲造も南洋論を展開しましたが、当時の日本に「南洋」というものがどのような影響を与えたとお考えでしょうか。

船橋:日本の南洋の発見は、日清戦争の戦勝の結果として、台湾を領有することで起こりました。

台湾は、南シナ海と東シナ海をのぞむ、戦略的かつ地政学的に重要な場所にあります。第二次世界大戦でアメリカ海軍を率いたアーネスト・キング大将は「台湾を握れば南シナ海という瓶にコルクの栓をすることができる」と言いました。当時、海南島を含む南シナ海は日本の支配下にありましたから、台湾を制圧し、ここに蓋をすれば、インドネシアからの石油も、マレーシアからのゴムも来なくなる。日本を完全に干すことができます。マッカーサーも「台湾は不沈空母だ」と言いました。台湾は日本にとって海洋地政学的にきわめて重要なところなのです。その台湾を日本が領有したことによって、今度は南洋、つまり東南アジアの地政学的な重みを発見することになったのだと思います。

白井:戦前の日本は貿易制裁、金融制裁ですでに甚大なダメージを受けており、戦う前から敗戦を運命づけられていました。経済分野での施策推進について述べたエドワード・ミラーの『日本経済を殲滅せよ』(新潮社)では、当時の日本の主要輸出品であった絹から始まり、軍事に必要不可欠な物資、果ては原油までを日本の手の届かない状況にしていった過程、およびその結果について、思考法や影響が子細に分析されています。台湾も日本にとって重要なチョークポイントであることを再認識いたしました。

ところで、最近では南洋という言葉よりも、インド太平洋という言葉の方をよく耳にします。新渡戸稲造の時代に南洋と言われていたエリアが、今の日本にとってはインド太平洋にあたるのでしょうか。

船橋:「インド太平洋」、なかでも「自由で開かれたインド太平洋(FOIP:Free and Open Indo-Pacific)」という言葉は、2016年に安倍首相がナイロビの第6回アフリカ開発会議(TICADⅥ)での基調講演で使ったのが最初です。安倍首相は、ここで、「太平洋とインド洋、アジアとアフリカの交わりを、力や威圧と無縁で、自由と、法の支配、市場経済を重んじる場として育て、豊かにする責任を担います。両大陸をつなぐ海を、平和な、ルールの支配する海とするため、アフリカの皆さまと一緒に働きたい」と述べています。トランプ政権の登場後、日米がそれを主導して進めていくことになりました。さらに、バイデン政権もそれを推進していく方針を明確にしています。トランプ政権は今年1月、新政権にタガをはめることを意図したような一種独特の“引継ぎ”の形で、2018年に内部文書として作成した「インド太平洋に関する戦略的枠組み」を秘密指定解除し、公表しました。

そこでは、

*中国は、インド太平洋地域における米国の同盟関係を解体しようとしている。

*日本を、地域の安全保障枠組の柱と位置づけ、自衛隊の近代化を支援する。

*日米豪印」の枠組みを立ち上げ、日米豪の三か国の協力を深化させる。

との認識と方針を示しています。

日本の外交官たちの中には、バイデン新政権が前政権のものをすべて否定するのではないかと心配する向きもありましたが、2021年1月28日の菅-バイデン電話会談では、「自由で開かれたインド太平洋」をさらに進めていくことが確認されました。

「インド太平洋に関する戦略的枠組み」で注目すべきは、「インド太平洋」の中核に「日米豪印」の協調を据えていることです。つまり、クアッド(Quad)です。

クアッド(日米豪印戦略対話)は、第一次安倍政権の時に安倍首相が提唱したものです。当時はインド(マンモハン・シン政権)も豪州(ジョン・ハワード政権)も慎重論で、アメリカ(ブッシュ政権)は「インドとオーストラリアがOKならやろう」とか言って結局、乗りませんでした。インドとオーストラリアの関係も微妙で、難しかった。インドはオーストラリアを一ランク下に見る癖がありますし、オーストラリアは日米豪で十分で、インドが入ると自分たちがかすむという懸念もあった。しかし、2019年9月に最初の外相会議が開かれました。最大の変化はモディ首相の登場によるインドの変化です。インドは大きく舵を切ったのです。加えて、2020年夏の国境紛争地帯のラダクでの中印軍事衝突が決定的でした。マラバル海での共同軍事演習に日米に加えて豪も招待するなどここでも変化が見られます。トランプ政権がこれを全面的に支持したことも大きかったですね。昨年11月、日本におけるクアッド外相会議にポンペオ米国務長官が飛んできました。バイデン大統領はトランプ政権からこれを引き継ぐ形で一気呵成にクアッド首脳会議に格上げし、3月12日、最初の会議がオンラインで開かれました。この席では来年末までに東南アジアはじめ世界に10億回分のワクチンを提供する体制をつくることも合意しました。会議後、モディ首相は「クアッドは一人前になった」と述べました。米国においては、クアッド・イニシアティブは超党派合意の政策展開となった点が重要です。2018年でしたか、中国の王毅外相は、クアッドは「水泡のように消えていくだろう」と述べたことがありましたが、読み間違いをしたと思います。クアッドは21世紀のインド太平洋、さらにはグローバル政治における重要なプラットフォームとなる可能性があります。中国は「クアッドはアジア版NATOだ」と牽制していますが、当面、そのような軍事同盟になることはないと思います。米日豪は、中印やインド・パキスタンのユーラシアでの紛争に巻き込まれたくはないですし、米国は太平洋の第一列島線におけるような軍事基地・プレゼンスと戦力投射能力をインド洋では十分に持っていません。NATO諸国の中にはクアッドとNATOをつなげようという考えも出始めていますが、時期尚早でしょう。むしろクアッドを中国の地経学的挑戦に対する政策協議の場とするのが得策ではないでしょうか。その観点からすれば、今回のクアッドの枠組みを使ったワクチン供与外交は付加価値があります。とくにジェネリック超大国のインドがワクチンや原薬の生産・供給能力を持っているので、その力を活用したいということです。金持ち先進工業国が自国第一主義でワクチンを抱え込み、貧しい国に回さないとの批判に対応するねらいもここにはあるでしょう。それにしても日本が今回、自前のワクチン生産体制をつくれなかったことは本当に残念です。

もっとも、「自由で開かれたインド太平洋」も「クアッド」も、いまだに構想のレベルであり、中身はこれから詰めていく必要があります。ASEANの国々の多くは、これらにどのように対応していくべきかまだ様子見といったところではないでしょうか。それでも、例えば、インドネシアでも将来はクアッドに加盟すべきだという声が出始めています。インドネシアは南シナ海での領有権問題を中国と直接、抱えているわけではないのですが、ナツナ諸島の海洋権益を巡って緊張状態にあります。米外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』(2021年2月号)に、インドネシアのジャーナリストのニチン・コカが「中国の圧力に対抗するためにはASEANでは無力であり、インドネシアはクアッドに入るべきだ」という論考を発表しています。

ただ、私は「自由で開かれたインド太平洋」と「クアッド」を直接結び付けない方がいいと思っています。「自由で開かれたインド太平洋」はルールに基づき、法治(rule of law)を踏まえた開かれた地域主義を目指すべきであり、インド太平洋における国際秩序とその正当性を構築する試みです。ここは中国がそうしたルール順守と法治を受け入れるのであれば中国にも門戸は開いておくべきでしょう。それに対してクアッドは基本的には中国の軍事的かつ地政学的・地経学的攻勢に対する抑止力と対応力を形成する勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の概念です。この両者は実線で結ぶのではなく点線でつなげるのが得策だと思います。

白井:インド太平洋とアジア太平洋とは似ている気がしますが、「インド太平洋」という枠でとらえる意義はどのあたりにあるのでしょうか。

船橋:なぜ、「アジア太平洋」ではなく「インド太平洋」なのか。これはインド洋と太平洋を中国の「一帯一路」の閉ざされた勢力圏内には置かせないという日米の海洋戦略的理念と自由で開かれた政治、社会体制、さらには生活様式(way of life)を含む同志国(like-minded countries)連携という価値観が関係していると思います。デジタル革命やデータ政策の理念と方向性をめぐっても日米と中国との違いが鮮明になってきていることも関連しているでしょう。デジタルレーニン主義に基づく国家監視社会モデルを中国は開発し、それを他国にも浸透させる「チャイナ・スタンダード(中国標準)」に対して日米ともに警戒感を抱いています。中国はすでにファーウェイの5G、中国版GPSの「北斗」、電気自動車、リチウムイオン電池、太陽光パネル、レアアースなどで地経学的な優位性を保持しつつあります。これらの分野の規範やプロトコルはいずれ中国標準、中国仕様で上塗りされる可能性もあります。また、グローバル・サプライチェーンも、国防関連、半導体、医療・ワクチン、エネルギー、海洋、食糧などの面で、中国に依存しすぎないようにしなければなりません。日米に他の同志国を加えて、自由で開かれた貿易体制を構築し、地経学的対応力を強化する必要があります。

そうなってくると、日米に豪州、それからインド、さらにはベトナムやインドネシアが重要な戦略的パートナーとなります。それからASEANですよね。ASEANはEUが基本的に大陸地域主義であるのに比べて海洋地域主義の色彩を濃厚に持っていると思います。「インド太平洋」はそうした海洋国家群による海の平和秩序構想でもあると思います。

白井:東南アジアではやはりASEANが鍵という気がします。ASEANの中には、中国と強い経済的結びつきと言いますか、経済的依存度が高い国があります。ASEANの議長国がどの国になるかによって、中国の南シナ海における活動へのトーンが大きく変わります。ASEANの状況はどのように捉えておられるでしょうか。

船橋:南シナ海における中国の攻勢を前に、ASEANは「分断統治」され、ひび割れた状態にあります。これが地域における不安要因となっています。ラオス、カンボジア、そして今回軍事クーデターが起こったミャンマー、それからタイは、中国の大陸パワーの磁力に一段と吸い寄せられているように見えます。一方で、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポールは海洋国家としてのアイデンティティと利害関心と生活様式を持っています。(フィリピンはフラフラしていますが・・・)この両者の間に距離感が生まれています。設立以来、ASEANはASEAN中心主義(ASEAN centrality)を標ぼうし、地域の枠組み構築をしてきましたが、それを維持しにくくなりつつあります。ASEAN中心主義をもっとも熱心に推進してきたシンガポールでさえ、ビラハリ・カウシカンのようなベテラン外交官が、ラオス、カンボジアの二国は国外勢力の影響下にある、このような状況が続くのであれば、ASEANとして、この二か国を切り捨てることも考える必要があると発言するなど揺らいできています。インドネシアがどのようなインド太平洋政策を取るかもASEANの将来に影響を及ぼすと思います。インドネシアはASEANの中の超大国であり、G20の国ですし、イスラムの大国でもありますから、ASEAN中心主義の枠組みだけに収まる国ではありません。インドネシアがASEANを引っ張る求心力として動いてくれればいいのですが、その力がASEANの国々の間のバランスを崩し、遠心力として機能する危険性もあります。

たしかにASEANは中国の「分断統治」もあって統合への動きは足踏みを続けています。ただ、日本としてはASEANの統合を支援し続けるべきでしょう。ベトナムとインドネシアの戦略的重要性が今後ますます高まっていくことは間違いないところですが、それがASEAN分断につながらないように注意するべきです。ASEAN分解を一番喜ぶのは中国であるかもしれないのですから。ある意味では「インド太平洋」構想はASEAN中心主義を踏まえた1980年代以降の地域アーキテクチャーを超えるダイナミックスとも見ることができます。それだけにASEANへの目配りと気配りの外交がより大切になっていると思います。

(本文敬称略)

白井 一成

シークエッジグループ CEO、実業之日本社 社主、実業之日本フォーラム 論説主幹
シークエッジグループCEOとして、日本と中国を中心に自己資金投資を手がける。コンテンツビジネス、ブロックチェーン、メタバースの分野でも積極的な投資を続けている。2021年には言論研究プラットフォーム「実業之日本フォーラム」を創設。現代アートにも造詣が深く、アートウィーク東京を主催する一般社団法人「コンテンポラリーアートプラットフォーム(JCAP)」の共同代表理事に就任した。著書に『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』(遠藤誉氏との共著)など。社会福祉法人善光会創設者。一般社団法人中国問題グローバル研究所理事。

船橋 洋一

ジャーナリスト、法学博士、一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ 理事長、英国際戦略研究所(IISS) 評議員
1944年、北京生まれ。東京大学教養学部卒業後、朝日新聞社入社。北京特派員、ワシントン特派員、アメリカ総局長、コラムニストを経て、朝日新聞社主筆。主な作品に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『カウントダウン・メルトダウン』(文藝春秋)、『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン』(朝日新聞社)、『地経学とは何か』(文春新書)など。