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2024.10.29 経済金融

時代に先駆けたはずが乗り遅れ? 水素のパラダイムシフトを見誤った日本
日本の「水素敗戦」を防げ(1)

丸田 昭輝

 水だけでなく、石炭やガスなどさまざまな資源からつくることができる水素は、使用してもCO2(二酸化炭素)を排出せず、脱炭素に欠かせない要素となっている。日本は2017年、世界に先駆けて水素の国家戦略を策定し、世界初のFCV(燃料電池車)を実用化させるなど、一時は水素ビジネスの牽引役となった。しかし、ウクライナ戦争に伴ってエネルギー安全保障の問題がフォーカスされたことで、欧州を中心に水素分野の開発スピードが一気に加速。日本は早くも「周回遅れ」になりつつある。半導体や液晶など、日本は技術で先行してもその後のスケールアップで他国の後塵を拝し、水素も同じ文脈をたどりつつある。「水素敗戦」に陥らないためには何が必要か。本稿では、前後編に分けて、水素分野の世界的な潮流の変化を概観しつつ、日本の課題と処方箋を検討する。

 世界的な脱炭素の潮流の中、水素の役割が注目されている。現時点で水素戦略や水素ロードマップを発表している国や計画中の国は、OECD(経済協力開発機構)諸国からアジア・アフリカ、中東、中南米含め世界70カ国余り(2024年8月時点)。これらの国の多くは2045〜2070年のネットゼロ(温室効果ガス排出実質ゼロ)達成を宣言しており、ネットゼロには水素が不可欠であることの証左だといえる(図1)。

【図1】水素戦略・ロードマップを策定・策定予定の国(左)とネットゼロ目標を掲げている国(右)

 実は、日本は2017年に世界初の水素戦略である「水素基本戦略」を発表した国だ。同戦略に先立つ2009年には、水素を燃料として供給する家庭用燃料電池(エネファーム)を世界で初めて商用化。2015年には量産型FCVである「MIRAI」を世に出した。燃料電池は水素から高効率に電気・熱を取り出すことができ、電力やモビリティー、熱利用といった幅広い領域で活用が見込まれる。

 日本は、国際的な水素サプライチェーン構築[1]や水素発電などの技術でも世界の最先端を誇る(図2)。

【図2】日本企業が有する水素関連技術

企業名水素関連技術
トヨタ自動車燃料電池自動車・バス・トラック
本田技研工業燃料電池自動車・トラック
川崎重工業液化水素サプライチェーン、水素発電用タービン
千代田化工建設有機ハイドライド(注1)サプライチェーン
ENEOS水素ステーション、水素サプライチェーン
三菱重工業水素発電用タービン
JERA(国内発電大手)石炭発電へのアンモニア(注2)混焼技術
Panasonic家庭用・業務用燃料電池
東芝業務用燃料電池
アイシン(自動車部品)家庭用燃料電池
(注1)有機ハイドライドは水素を化学反応で貯蔵・放出可能な有機物の総称
(注2)アンモニアは水素と窒素から合成されるCO2を発生しない燃料

戦略で先行も、パラダイムシフトに乗り遅れ

 しかし現在、日本企業の水素ビジネスは順風満帆とは言えない。

 日本が水素基本戦略を策定した2017年直後の水素の位置付けは、モビリティー(FCV)や家庭用燃料電池の市場展開を中心に据えた「燃料電池利用の産業政策」であった。同戦略では、安価な海外エネルギー源を活用するため、水素の国際調達(水素サプライチェーン構築)の方針も打ち出されていたが、基本は日本製の燃料電池技術の世界展開であり、この段階では日本は世界をリードしていたといえる。

 FCVは確実に日本企業がリードしていたし、エネファームの実用化に世界は驚いた。その背景には、ガソリン車並みの性能を顧客に保証するためにEV(電気自動車)よりもFCVを選んだトヨタの戦略があったし、またオール電化対抗措置としてエネファームを積極的に売り出した都市ガス会社の戦略があった。

 パラダイムが変わったのは、EU(欧州連合)が2019年に打ち出した「グリーンディール」からだ。グリーンディールは気候変動対策と経済発展の両立を図る政策で、水素は拡大する再生可能エネルギーの貯蔵手段[2]として、また化学産業や鉄鋼産業などの電化が困難な産業部門の脱炭素化手段として注目された。翌2020年には、オランダ、ノルウェー、ドイツ、ポルトガル、ポーランド、スペイン、フィンランドなど欧州各国でも水素戦略が発表された。

 これらの国の水素戦略で共通するのは、「気候変動対策としての水素」の展開であり、国のエネルギー転換の一部としての水素の導入である。そのため、導入する水素には、できるだけCO2を排出せずに製造された「低炭素性」が求められる。

 さらにこれら欧州の水素戦略の発表以降、水素は「世界的に貿易されるモノ」という認識が定着した。EUは2030年までに欧州全体で年間1000万トンの水素を輸入するとし、再エネ大国のドイツも年間150万〜280万トンの水素を輸入する方針である。これに呼応して、多くの資源国(豪州、中東、チリ、ブラジル、アフリカ諸国)は水素輸出の方針を打ち出した。

 この「気候変動対策としての水素」に、2022年のウクライナ危機で「エネルギー安全保障としての水素」も加わった。そのため環境政策で先行し、ウクライナ危機によって脱ロシア産天然ガスを進めている欧州が水素戦略をリードするようになったのである。

 この点、日本の水素基本戦略は水素を「どう使うか」という利用面が主眼で、水素の低炭素性にはさほど注意を払っていなかった。2023年に同戦略を改定し、「気候変動対策としての水素」の側面と「エネルギー安全保障としての水素」が強調されるようになったが、すでに周回遅れの印象が強い。

 先行したはずの利用面においても日本の退潮は明らかだ。FCVは世界で8万台程度が普及しているが、シェアトップは韓国の現代自動車である。そもそも「ライバル」であるEVの世界販売台数は2022年で1000万台超に達し、FCVと桁違いだ。また、日本におけるエネファームの普及台数は52万台に達したが、これほど家庭用燃料電池が普及しているのは日本だけで、オール電化の対抗措置としての特殊要因があった。「世界初」の水素戦略の発表からわずか7年ほどで日本は先頭集団から脱落した。

 原発、太陽光、ゲノム解析、半導体、液晶など、日本は技術で先んじてもスケールアップと産業戦略で負けてきた。このままでは数々の「敗戦」の歴史に、水素も連なりかねない。

「低炭素水素」の技術展開で負ける日本

 前述のとおり、世界の需要は「低炭素水素」にある。低炭素水素の製造方法には、(1)再エネと水電解(水を電気で分解して水素をつくること)を利用して製造段階からCO2を排出しない再エネ水素(通称「グリーン水素」)か、(2)化石燃料由来だが、CO2を回収して地中などに貯留する「CCS」を活用した低炭素水素(通称「ブルー水素」)——という2種類がある(図3)。なお、「グリーン水素」や「ブルー水素」といった色の表現はイメージ的に分かりやすいが、製造過程のCO2排出量を定量的に示しているわけではないので、使うべきではないという意見もある。IEAや日本政府や色は使わない方針である。

【図3】低炭素性で分類される水素

(出所)資源エネルギー庁
(注)「グレー水素」とは化石燃料をベースとして作られる水素。製造過程でCO2を大気中に排出するため、低炭素水素とは見なされない。

 このうち、(1)の「グリーン水素」の製造には水電解装置が必要だ。IEA(国際エネルギー機関)によると、2050年の水素量4.2億トンのうち80%が水電解で製造される見込みだ。水電解で世界をリードするのは、独Siemens、独ThyssenKrupp、独Sunfire、仏McPhy、ノルウェーNEL、米Cummis、米Plug Powerなど欧米企業が中心だ。日本の水電解メーカーである旭化成とカナデビア(旧日立造船)は国の大規模実証に参加しているものの、世界展開に成功しているとは言い難い。

 また、製造した水素は常温では気体で存在するため、液化して貯蔵・運搬しやすくする「水素キャリア」という技術が必要だが、この分野でも日本の優位は限定的だ。水素キャリアの有力手段である液化水素のサプライチェーンでは、日本の川崎重工業が技術でも世界標準でもリードしているが、現状は試験段階であり、本格輸送船の建造と商用チェーン構築は2031年以降だ。

 これに対し欧州は、すぐに展開できる水素キャリアとして有機ハイドライド(水素を大量に含む物質の総称)とアンモニアを選択しつつある。このうち有機ハイドライド技術については、欧州は、千代田化工・ENEOSの技術(汎用化学品であり安価なトルエン系)ではなく、独Hydrogenious LOHCの技術(水素含有率はトルエンと同じだが、沸点がより高く、脱水素性=水素の放出の容易性で優れるベンジルトルエン系)でサプライチェーンを構築しつつある。また、アンモニア製造はすでに確立した技術であるため、日本企業に圧倒的な技術的強みはない。

 パラダイムシフトに乗り遅れ、苛烈な競争にある中、日本は水素戦略をどのように推し進めれば良いのか。次回は、「水素敗戦」回避の処方箋について考える。

写真:ロイター/アフロ

第2回に続く)

[1]水素の利活用には、利用のみでなく製造や貯蔵・輸送を含めた一貫した取り組みが必要であり、その仕組みを「水素サプライチェーン」と呼ぶ。
[2]再エネは発電量が時間帯や天候によって変動するが、余剰電力を使って水素を生成することでエネルギーを貯蔵できる。

丸田 昭輝

株式会社テクノバ 研究部 研究第3グループ 上級主席研究員
過去25年間水素・燃料電池分野の調査や実証、政策分析を手がける。特に海外政策動向に詳しい。慶應義塾大学大学院理工学研究科修士、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科国際関係学修士、米ハーバード大学ケネディ行政大学院MPA、東京大学博士(環境学)。

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