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2021.03.11 外交・安全保障

危険な心理戦-北朝鮮弾道ミサイルの脅威

末次 富美雄

心理戦は、中国人民解放軍政治工作条例に規定された「三戦」の一つである。相手の心理に影響を与え、戦おうとする意識を低下させる作戦である。「世論戦」が集団に対する働きかけであるのに対し、「心理戦」は個人に対する働きかけにより全体に影響力を及ぼす。心理戦は中国特有のものではなく、各国で行われている。米国では、情報作戦の一環として、個人や集団の認識に働きかける作戦として整理されている。

核抑止理論は心理戦の好例である。抑止には「懲罰的抑止」と「拒否的抑止」がある。懲罰的抑止は、もし自ら核攻撃を行なえば、相手から報復の核攻撃を受けることが確実であると思わせる抑止理論である。相手の先制攻撃に耐えうる第二撃能力となりえる、移動式弾道ミサイル発射装置、弾道ミサイル搭載潜水艦、戦略爆撃機等は、この抑止理論を物理的に保証するものである。これに対し、拒否的抑止は攻撃しても無力化されてしまう、攻撃しても無駄だと思わせる抑止である。核シェルターの装備や弾道ミサイル防衛がこれに当たる。いずれも、相手がどう認識するかが鍵であり、心理戦そのものと言えよう。米ロの間では核抑止理論が機能しており、これが今年2月に米ロ間で延長に合意された「新戦略兵器削減条約」に結びついている。

米中間はどうであろうか。トランプ前大統領は米ロ間の交渉に中国を加えて、参加国で条約を作ることを主張した。これに対し、中国は保有する核弾頭の数に大差があることから交渉への参加を拒否している。米国防省が昨年9月に公表したところによれば、中国の核弾頭保有数は約320個と推定されている。これは、戦術核を含むロシアの保有数6,375個、米国の5,800個と比較すると十分の一以下の数である。それでは米中間では核抑止は機能していないのであろうか。答えは「否」である。機能している。中国の大陸間弾道弾は車両式発射台に設置されており、更には、射程は短いとはいえ弾道ミサイル搭載潜水艦も保有している。十分な報復能力とは言い難いが、先制核攻撃を受けても、核によって反撃し得るという「懲罰的抑止」は機能している。

それでは北朝鮮との間で核抑止は機能しているのであろうか。防衛省が3月に公表した資料によれば、北朝鮮は6回の核実験をつうじて水爆を保有するようになった可能性も否定できず、核兵器の小型化、弾頭化を実現したと評価している。さらには、弾道ミサイルに関しても、長射程化、飽和攻撃に必要な正確性・連続攻撃能力・運用能力の向上、秘匿性・即時性・奇襲攻撃能力の向上、迎撃が困難な低高度・変則的軌道の採用、発射形態の多様化が指摘されている。ここでのポイントは、米国は依然として北朝鮮を核保有国として認めていないことである。北朝鮮の核実験や弾道ミサイルの発射実験の状況を見る限り、日本としては、核を搭載した弾道ミサイルを脅威と考えざるを得ない。一方、米国は、北朝鮮が米国本土まで到達するような核弾頭搭載長距離弾道ミサイルを保有していることを認めていない。北朝鮮が韓国や日本に核攻撃を加えたならば、米国が反撃するという抑止は機能しているが、米朝間に限って言えば「核抑止」は機能していないと見るべきであろう。これは、米国が北朝鮮による韓国及び日本への核攻撃を許容すれば、北朝鮮に対し先制核攻撃を加えることができる事を意味する。この米国の戦略的曖昧性が、北朝鮮にとってみれば米国を敵視する根源である。今年1月の北朝鮮労働党大会において、金正恩総書記は、明白に米国を敵視する演説を行っている。

バイデン政権は、現在のところ北朝鮮政策について、明確な指針は示していない。3月9日付ロイターは、バイデン政権高官が北朝鮮政策の見直しを約1か月以内に終らせる見通しであることを伝えている。ブリンケン国務長官は、北朝鮮に対し新たな制裁措置を検討する可能性があると伝えている。

北朝鮮への軍事戦略として最近取りざたされているのが「Left of Launch(発射の左側)」である。これは、北朝鮮の弾道ミサイル発射のシークエンスを見立てて、発射の左側、すなわち、発射前に対応しようとするものである。対応方法としては、サイバーや電磁波を使用するものから、物理的な破壊まで幅広く検討されている。これは、新たな考え方ではなく、日本でも「策源地攻撃能力」として検討されているものである。しかしながら、「Left of Launch」としてのサイバーや電磁波の使用は、効果が不透明であるとともに、もし北朝鮮が「攻撃を加えられた」と考えれば、韓国又は日本の米軍基地を目標として核弾頭を装備した弾道ミサイルを発射する可能性はゼロではない。抑止力として「策源地攻撃能力」を保有することは必要ではあるが、あくまでも物理的な方法に留めておく必要があるであろう。

核抑止理論を考える場合、抑止が効かないケースが二つあると言われている。その一つが、国家としての実態を持たないテロ組織であり、もう一つが国家や政権の存続を考えない破綻国家である。北朝鮮は、金正恩政権の存続が第一の国家目標と考えられている。国民や国土はそのために必要な手段という位置付けである。従って、金正恩自身が、政権が危機に陥ると考えた時に、北朝鮮国民や国土を人質とした日本や韓国に対する核攻撃に踏み切る可能性は低くない。かつて、金正日は、北朝鮮の無い地球など壊してしまえばいいとまで言ったと伝えられている。北朝鮮問題は、極めて複雑な心理戦であり、北朝鮮弾道ミサイルは大きな脅威であることを再度自覚する必要があるであろう

サンタフェ総研上席研究員 末次 富美雄
防衛大学校卒業後、海上自衛官として勤務。護衛艦乗り組み、護衛艦艦長、シンガポール防衛駐在官、護衛隊司令を歴任、海上自衛隊主要情報部隊勤務を経て、2011年、海上自衛隊情報業務群(現艦隊情報群)司令で退官。退官後情報システムのソフトウェア開発を業務とする会社において技術アドバイザーとして勤務。2021年から現職。

末次 富美雄

実業之日本フォーラム 編集委員
防衛大学校卒業後、海上自衛官として勤務。護衛艦乗り組み、護衛艦艦長、シンガポール防衛駐在官、護衛隊司令を歴任、海上自衛隊主要情報部隊勤務を経て、2011年、海上自衛隊情報業務群(現艦隊情報群)司令で退官。退官後、情報システムのソフトウェア開発を業務とする会社にて技術アドバイザーとして勤務。2021年からサンタフェ総研上級研究員。2022年から現職。

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